軍艦防波堤付近は現在工事中のため、近寄るのが困難だそうです。2006−02−28
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解説/軍艦防波堤とは?
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ご意見は
落書き帳ひとことどうぞ または E-mail:t-macchan@ma2.justnet.ne.jp
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お寄せいただいた声は、このページに引用させていただくことがありますのでご了承ください。 お名前などプライバシーは固くお守りします。 |
さらに、リンクのページからたくさんの貴重な資料満載ページに飛べます。是非お読み下さい。
1999年夏頃の姿
まだ船型をとどめています |
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2000年1月10日
自然崩壊? 人為的破壊? 港湾局に電話すると、近頃工事などをしたのではないとのこと。(2000−01−11)
何という悲しい姿に・・・ |
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この貴重な船体は、日本に唯一残ると言われる旧日本海軍の駆逐艦です。
(専門的には「軍艦」という呼称ではなく「駆逐艦」または「(軍属)艦艇」を使うそうです。)
(詳しい解説をM・S様よりいただきました。その指摘により、一部記述を訂正。2000-01-23、同02−15)
ほぼ船の形をとどめたものとしては、日本にここだけにしかないと言われていました。
その横に眠る「涼月」「冬月」とともに、精いっぱい生きて、
そして死んでいかれた方々の生き様を忍ぶ貴重な記念碑でもあったのです。
私のぺーじに、まだ船型をとどめていた時の写真と、どうしてここまで私がこだわるかを書いています。
1999年の崩壊(大型台風によるもの)と、その後の港湾局による修復
船体のブロックがそっくり横にずれた状態。 | もうずたずたでした |
よくもここまで修復できたものです。
(艦に乗って艦首を見る) 2000−04−01 |
2000−01−16現状
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艦尾から見ると、まだ形をとどめてます。
向こう側の艦首が壊れていました |
一目で分かるわかりやすいページはこちらです。
簡潔に紹介していますのでリンクさせていただいてます |
この間まで載せていた、私の
軍艦防波堤についての紹介ページです。 |
以下はこちらのページのM・S様よりいただいた「柳」に
ついての詳しい解説です。ご指摘ありがとうございました。 |
軍艦防波堤の紹介看板です。一般市民向けのわかりやすい紹介文です。防波堤の横にあります。 |
現在見えている船体は、大正年間に建造された桃型駆逐艦「柳」
で、同名の昭和年間建造の松型駆逐艦「柳」とは異なります。 初代「柳」は、昭和15年に除籍されている(中略by抹茶) 第一次世界大戦中に地中海遠征隊の増援部隊に参加して独軍相手 に英国船団護衛として大いに活躍した武勲艦であるので、貴重な ものであることには全く変わり有りませんが。太平洋戦争中は、 佐世保にて係留され、主に旧制中学の軍事教練などに使用されて いたそうです。二代目「柳」は津軽海峡で座礁して終戦を迎え、 大湊で解体されました。おそらく、太平洋戦争に参加した旧海軍 水上艦艇は現存していないと思います。 以上M・S様より |
私が集めた軍艦防波堤関係の文献資料集です。
これらの文献には間違った記述も含まれているのですが、資料として掲載します。 |
防波堤を心に留めていただき、嬉しく思います。防波堤も喜んでいるかもしれません。 ここに一部を掲載します。 私の考えをまとめる材料にもしますし、皆様も、他の方の御意見をお読みいただければと思います。 |
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涼月乗組員 M氏のお話を聞くことができた。
「戦争だけは、絶対にやっちゃいけない」
そう 涙ながらに語られた。
あの言葉を、あの言葉の魂を、
私は一人でも多くの人に伝えたい 2001-08
軍艦防波堤見に行きました 投稿日:04月23日(日)23時57分09秒
抹茶さんお久しぶりです。 今日、軍艦防波堤を見てきました。 若松へ行くのは何年ぶりでしょう。 見知らぬ場所へのちょっとした小旅行で、 どきどきもんでした。 JR若松駅でタクシーのおじさんに道順を聞いて、 「あんたつりでもするね?響きの方でわかりずらいよ」 という言葉にやや不安になりつつも、響灘工業地へ。 途中、中学生に青橋の場所を聞いて行くと、 青橋を下る頃には目の前に荒涼とした草地が広がります。 「わああ すごい」と感動もつかの間、開けた車窓から 化学臭が入ってきて、うっと息を止めました。 ほとんど車も人も通ってない工場地を過ぎると洞海湾へ やっとみつけました軍艦防波堤。看板を読むと 胸せまるものがあります。今日は風が強く海が荒荒しい 呼吸をしてるようでした。この荒涼とした廃墟のような 港と沈む夕日に映る軍艦防波堤とても気にいりました。 まるで私の心の風景のようなそんな懐かしさです。 |
2000−02−13記載
下記のM議員と、先日少しゆっくり話をしてきました。その要点を書きます。
.当面は、軍艦防波堤をいじる計画はないようだとのこと。また、今までもいじったこともないようなので、壊れたのは多分、1999−09−24、(日付は2000−04−02修正。02−25の毎日新聞を参照して)北九州市に激甚災害をもたらした台風の為だろうとのこと。
この件については港湾局とよく話すようにしているので、秘密を持つようなこともないだろう。 |
・看板はもう読めなくなっているので代えるようにしたいとのこと。 |
・できるかぎりの壊れた部分の小規模な修理はしたいとのこと。
大規模な修理は当面予算の関係からも難しい。 |
また、私の考えた保存方法である、アクリル樹脂で固めるという方法も話してみました。
色々な意見を取りあえず話してみるのは大切なことだとのことで、聞いてもらえました。 |
日光や傷などによって不透明にならなければいいのですが、表面だけ強くして傷が付かないようには加工できるのでは。このまま朽ち果ててしまうよりはいいと思います。
この方法については夢のようなことかもしれませんが、書くだけは書いておこうと思うのです。
現実は意志のなかから生まれるからです。
軍艦防波堤現状2000−01−16
本日行ってみました。そして客観的には少し慌て過ぎたかも、という印象を受けました。
先週行ったときは、壊れていたことが悲しくてそこにばかり目が行きました。
しかし、今週冷静にな気持ちでもう一度見てみると、確かにひどく壊れているところはありますが、写真のように壊れているのは、全体の2割程度。全体としては、まだ十分に防波堤としての役割をしているようです。
今すぐ大慌てでコンクリートで塗り固める必然性も、傍目から見たら感じないかもしれない。そう思いました。
ただ、確かに紛れもなく浸蝕は進行しており、一日も早い保存が待たれるのは事実です。
調査活動を継続したいと思います。
3人の釣り人に聞いてみましたが、いつ壊れたのかはわかりませんでした。一人は私と同じく、去年の台風が原因だろうと言っていました。
議会関係のM様 |
一昨日、港湾局から返事がきました。
実際に担当者が現状を見に行って、写真を撮ってきていました。 説明によると、あの軍艦防波堤は国の持ち物で、市が委託管理しているとのこと。あれだけ壊れたのは、昨年の台風の影響でしょうとのことでした。 まず、看板についてはやりかえてくれるそうで、 かんじんの本体は部分的な修理をとりあえずやりますとのことで、全体的な修復は見積もりをとってみないとわからないそうですが、かなりかかりそうなので、来年の予算が固まってきている中、厳しいけ どできるだけ頑張ってみますとのことでした。 |
お陰様で、防波堤に行く釣り人にも少しは知ってもらえるでしょう。
あの朽ちた看板を首をかしげて「読めないや」という表情をした釣り人を何人も見ました。
予算の方は難しいでしょうけれど、前向きに取り組んでいただけるようで嬉しい限りです。
緊急の修理は難しいとしても、乱暴にコンクリートを被せられたり、という方向からは、遠のいたのかな!?
ひょっとして、将来景気が上向いたら、よもや保存に向けた取り組みも期待出来るかも・・・
その時に向けて息長く働きかけていきたいです。
またこちらとは連絡をとるつもりです。期待しています。
でも、部分的修理って、あの朽ちた船体を修理できるのでしょうか?少し気になります。今後しっかりと見守っていきたいです。
異国のO様より |
以前から海軍教育や過去の戦争の歴史に興味を持っておりまして、 「あの時代には何もなかったが、何かがあった。
現在は何でもあるが、何かがない。」その『何か』を探し求めていたところ、海軍の良き伝統を学び継承すると言う集まりの「海軍倶楽部」を知り、現在は海軍倶楽部の末席に所属させて頂いて居ります。 そのHPで抹茶さん(抹茶さんと呼ばせていただいても良いのでしょうか?)のHPが紹介されていましたので今回のMAILとなりました。 |
異国のO様より、続き
(掲示板に書き込むつもりとのことでしたので、勝手ながら公開させていただきました。ご迷惑でしたらお知らせ下さい。すぐ対応します。抹茶) |
さて、私が感じたままを述べさせて頂きます。軍艦防波堤の事は、聞いてはいましたが現物を見たり詳しい説明を受けたのは初めてです。
「柳」の戦歴に関しては勉強不足で詳しくは知りませんが、「涼月」「冬月」と言えばおっしゃる通りで「大和」の沖縄特攻に同行した防空型駆逐艦だったと思います。五十数年前に米国の鉄と火薬の風雨から国民を守り、幸運にも生き長らえた後に現在に至るまで自然の波から国民を守り続けている、感謝しても感謝しきれない存在ではないでしょうか? それが(その方がと言った方がいいかもしれません)この姿でいるとは日本国民として情けない、恥ずかしい限りです。今の人々には判ってもらえないのでしょうか? そう思うと、日本はどこかで大切な道を踏み外したとしか言いようがありません。戦争イコール悪、それは間違いないと思います。しかし、先の大戦で青春をすり減らして家族を、そして国を守るために戦い続けた人を冒涜するのが間違っているように、当時の艦艇や航空機も記念碑としてでも残しておくべきと思います。 しかし、今の日本のどこに国がお金を出して管理している戦争博物館のような物があるのでしょうか? 戦争に関係するものは全て悪、と教え込まれているような気がしてなりません。これは間違いではないでしょうか?事実として先の大戦で戦った方がいるからこそ今の裕福な日本があるのであり、それを悪と決めつけて臭いものにはフタ式でいるから今の世の中何も知らない人が多すぎるのだと思います。先の大戦で亡くなられた方は、この様な日本を望んでいたのでしょうか?このままでは、日本はなくなってしまわないかと心配です。 この軍艦防波堤も最低限度、残していただきたい。 しかし、今の私には何もできませんし方法も判りません。それがとても情けないです、悔しいです。 抹茶さんにお願いがあります。私は何もできませんがこの気持ちを軍艦防波堤としていまだに頑張っている「柳」「涼月」「冬月」に伝えて頂けないでしょうか。 この様な日本人もいるぞ!って事を伝えてください。また、この船と共に戦い無念にも亡くなられた方にも合掌を遠い中国からですがさせて頂きこのMAILを終わりたいと思います。 長々とつまらない文を申し訳ありません、御許しください。 また何もできず意見のみを言わせて頂いた事に対してもお詫びせねばなりません。申し訳ありませんでした。私のADDRESSは下記の通りです。抹茶さんからも何かお言葉を頂ければ幸いです。宜しくお願い致します。 |
ただ、私としては慰霊だけではなく、軍艦そのものの存在を感じることの出来る現状を大切にしたいです。
もしいつか私が遺族会に接触できれば、是非あなたのお言葉をお伝えします。
ただ、遺族とはいえ、色々と複雑な感情をお持ちでしょうから、気軽にはできないと思います。このページの一番下の「戦前派の方」からの手紙を読んでそう思いました。
色々な方からの御意見を聞き、それなりの準備を進めたいと思います。
M・S様より |
非常に驚きました。あの舳先など、ゆるぎないものの ように思え、滅多なことでは壊れないと思っていたのですが。 自然崩壊ならば嘆息するのみですが、なんとも不自然な様子 です。この様子が非常に気掛かりです。 抹茶様にお願いしたいのですが、若松市忠霊搭(現在北九州市 若松区高搭山山中にあり)脇に柳ら三艦の慰霊碑がありますの で、是非、その慰霊碑を建立された団体に連絡をしてみて下さ い。柳会、冬月会などの遺族会がおそらく現在も市内にあると 思います。 また、以前民間テレビ局にて防波堤のことを紹介しているので、 テレビ局に関心を寄せてもらえる所もあるかもしれません。 |
遺族会の名前も慰霊碑に書いてあったので、近く調査せねばと思っていた所です。
多分、区役所に聞けば教えてくれるかもしれないと思います。
この調査の次の段階として、考えています。必ず近い将来そちらに行かざるをえないでしょう。
ただ、遺族とはいえ、色々と複雑な感情をお持ちでしょうから、気軽にはできないと思います。このページの一番下の「戦前派の方」からの手紙を読んでそう思いました。
今現在は、皆様から頂いた御意見を整理して、
自分のこれからの方向を考える材料を作りたいと思っています。
軍艦防波堤のページに、皆さんの御意見をまとめて書きます。
それと、多分去年の夏の台風による被害ではないかと思い付きました。
北九州市の門司の岸壁も、当時手ひどい被害を受けてますし、多分その時かも。
大波にやられたとすれば、錆び具合からしても納得のいく壊れかたです。
ちょうど流されたかのような壊れかたですから。
釣り人に、いつ頃壊れたか聞いてみるという手も考えています。今日も3人ほど聞きました。<抹茶
M・Y様より |
いきなり状態が悪化したようですね。元来が軟鋼ですから、腐食対策とかしていないと、いつかは錆で崩壊することになります。ですから、そろそろ天寿が来たと思って、埋めてやるのもまた一手かとも思います。
冬月や涼月のように鉄泥棒に狙われるのも悲しいですからね。本来ならば大蔵省か連合軍の手によって解体されていたはずのものですから、それがここまで役立ったと考えれば、まぁ。。。 しかしもし保存運動を起こすのであれば、マスコミを動かすのが一番だと思います。地元新聞社やTV局を通じて同志を募れば、あるいは。 個人的には前述の通り、どう反応したらいいか迷っています。そのままそっとしておいてやりたい気もしますし。。。確かに最期はちゃんと埋めてやれって気もしますけど。ではでは |
しかし、かつて鉄泥棒にやられていたとは知りませんでした。
その話は、どのような所からお聞きになったのでしょうか。
保存運動、考えています。その前に、今の所わかっている所を自分なりに整理しようと苦心しています。
私の行動が遅くならないことを祈っています。
O・T様より |
貴重な近況報告ありがとうございます。これって、やっぱり自然破壊なのですかね〜。悲しいですね。
市or区の力でなんとかならないものでしょうかねぇ。ここはやっぱり市民が一番初めに動かねば、市も区も動かないのかなぁ。 > 遺跡は過去から我々へのメッセージを伝えるものであり決して無用なものではない。 まさにその通り!ですよねこの言葉・・。 |
O@K様より |
軍艦防波堤の情報ありがとうございました。
このようなものがあることを全く知りませんでした。 若松方面へ行った際には、立ち寄って見たいと思っています。 |
M・M様より |
おはずかしながら軍艦防波堤のこと、はじめて知りました。それも若松にあるということも。
とにかく自分の目で見てみたいと思いますので、数日時間を下さい。又ご連絡いたします。 |
軍艦防波堤についての記事を、随分前にある本に掲載した著者からの手紙を引用
貴重な戦前派の方の御意見です。 |
(中略by抹茶)
特に、軍艦とか戦争に関することは戦前派ですのであまり語りたくなく、趣味もありません。 只、平和に戻り防波堤として活躍したことの証として皆様に知っていただくために (後略>そのために、軍艦防波堤の記事をある本に掲載したとのことBY抹茶) |
2000−01−27 旧ページについて「大型写真」をアピール
2000−01−27 M・S様の指摘により、2度更新
2000−02−13 少し記事を書き加える。市議M氏へのインタビューを掲載
2000−04−02 修復に関する記事。崩壊推定日も追加
2000−04−29 訪問者の感想を追加
2001-08-23 放送についての誤解を解くための処置
2001-12-31 トップページを書き換える
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