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私の考えたこと、近況などなど



目次

2001年以降書いた文書はこちら

うた


2000−07−19

久しぶりの更新

30周年記念執筆
復職して近頃色々と思うこと
2000−01−23
歩行道について
 1999−12
声の大きさを聞く耳だけ
2000年問題(Y2K)
ひどく疲れが溜まりがちです
まじめに仕事をすることへの虚しさ、愚痴、下書

1999-11
眠れない夜の辛さは、誰かがきっとわかってくれる

毎日新聞「先生」への意見投稿
1999−10
掲示板の移動について

お客さん感覚について、表現の試み。試作品。

教育論文、実践集といったもの

その親の馬鹿馬鹿しい心配性

教師集団という不条理な者達の中で生きていくこと

今夜も寝られません。こんな苦痛がいつまで続くのか


掲示板について、色々な方々のご意見を聞き 私の中にできつつある色々な意見

1999−09

実在の団体名などを使うかどうかについて

私が、ルールづくりを急いでしまった背景

掲示板有料を選んだ理由の一つ


復職以前の文章 1999−08以前

ジョニーは戦場へ行ったを見て

休むということ、その他呟き

居場所について1居場所について2


Click Here!since2002−08−21

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通信300号を記念しての文書です 

この十年を振り返って 抹茶

 先日ひょんなことから、私が住むアパートに越してきて、今年の秋で丸十年になるとわかった。十年この部屋に住んでいる。それをきっかけに考えるようになった。この十年私は何をしてきたのだろうか。ちょうど十年前、私は☆親星二十周年の文集に寄稿したことになる。あれから色々な旅をした。旅の思い出を思いつくままに綴ってみた。

◆ アダルトチルドレンと戦争

 旅の途中、私は「アダルトチルドレン」という言葉に出会った。幼い頃に心に傷を背負って生き抜いてきた者という意味のようだ。自分にぴったりくるものであった。今を生き抜く、心傷ついた人々にも心の琴線に触れる言葉だろう。

 ここらでどうにも、「アダルトチルドレン」の言葉の定義めいたものが欲しい気がする。ネットからできるだけ簡潔な表現を探してみた。

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 精神的に不安定な家庭環境(家庭内暴力など)の中で育った子供が、その心の傷を癒せないまま成人になり、社会での人間関係をうまく結べないような状態のこと。病気ではなく、自覚のための言葉である。1983年にアメリカのソーシャルワーカー、ジャネット・G・ウォイティッツが著作で明らかにした概念で、元々は「アルコール依存症の問題を抱えた家庭で育った子供」のことのみを指した。

http://home.highway.ne.jp/mori-h/backnum/9803/980326.html より引用

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●傷は受け継がれる

 私にとって心の傷は、主に親から受けたものだった。その親はそのまた親から傷を引き継いだのだろう。こうして傷の伝播は連なっていく。私も何十年も親から受けた傷を抱えて生きてきた。他の人々も親から受けた傷を何十年も心に抱え続ける、そのありありとした現場を、竹内敏春の弟子達のレッスンで目の当りにしてきた。その傷は、親達がまたその親から受けたものであることも、そのレッスンの場ではっきりと見た。これは確かな事実だ。

●戦争とアダルトチルドレン

 「アダルトチルドレン」をキーワードにインターネットを検索すると、この傷の伝播のおおもと辺りに「戦争」という大きな現実が存在するのではという仮説に出会った。親から親へと受け継ぐ心の傷は、無限に過去へさかのぼるわけでもなく、「戦争」で多くの人が受けた癒しがたい傷が、後の世代に伝えられたという。この仮説は、文章にしておくに値すると思う。いつか誰かの目に留まって欲しい。(実はこの仮説は、何年も前にネットでちらっと見ただけで、どこにあったのか検索してもわからないでいる)

●内観との出会い
アダルトチルドレンとしての私は、当然のように親に強い憎しみを抱いていた。それは果てしもなく続くと思われた。そしてその道の途中では、憎しみを言葉にしたり、家を飛び出たり、親との音信を断絶したりといった行動に出るしかなかった。

 長く十年以上続いた親への恨み辛み、それは殺意を伴うほどの真実だった。そしてその憎しみは、旅路の果て1999年冬「内観」との出会いによって、ふっつりとその姿を消した。急激に憑物が落ちたかのような、夢から覚めたかのような出来事だった。

 「内観」とは吉本伊信氏によって広められた修業法である。一日中半畳ほどの空間に座り続ける。他に何一つ気晴らしもない。そして、ある手法に従って時を過ごしていく。

 7泊8日の修業を5日で中断した私だった。ただ、劇的な効果はあった。親に対する気持ちが憑物が落ちたようにがらりと変わった。今までは親からの手紙すらごみ箱に捨てていたのが、今は週に一度は自分から電話をかけて両方の親の様子をうかがっている。時々は顔を見に行くことすらある。親を家に呼んで食事を供にしたことすらもある。信じられない変化である。少しずつ、少しずつ、話さなければならなかったことを両親から聴き出しつつある。幼い頃のこと。両親がどう生きているのか、誰の世話になっているのかといったこと。その話の中には「戦争」も少し含まれている。父が、戦争の話を時に口ごもりつつ話したこともある。そして戦争。。。誰もが話したがりはしない、口をつぐむ話題。あとどれほど聞き出せることか。話のついでに時々親から聞き出そうとしている。両親とは、それほどには話をしない。でも、以前よりは比較にならないほど多く話している。

 内観がどのようなものであるのか、どうしてそれがそんな力を持っていたかについて、今は詳述することができない。というよりも、自分でもよくわからない。ただ、内観が大変な力を持っていた。大きなきっかけになってくれた。興味ある方は、本やホームページがたくさんあるので参考にされたい。

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◆今の仕事に対して感じること 近況報告(ある本を読み初めて感じたこと)

 仕事をしていても、休職以前は、何かいつもわくわくドキドキしていた感じがあった。それは、仕事の中で、自分をどうやって生かそうかといつも模索していたからだということができようか。

 今、私はそれが消えている。仕事の中で自分が生きることなど、自分が望むほどにはできないということを知ってしまったから。仕事の中で自己実現ができる範囲はとても限られているということ。私が必死で築き上げた仕事も、私が休職に入ったら誰も引き継がなかったという事実。休職とその後復職した職場で、以前の自分の仕事がまるで引き継がれていなかったのだ。私の努力はほこりをかぶって一年近く放置されていたり散逸していた。かつての仕事の残骸が、無我夢中で仕事に取り組むことを、むなしいため息混じりにやめさせている。私がここでいくら工夫してもただの自己満足。世の中のためにはなってない。誰も真似しない。誰も受け継がない。私は、今職場に、壮大な暇つぶしをしに出ている。ただ日々存在するために出ている。ただ休まないために出ている。

 自分の創造性を発揮するのは、職場ではなく自分の趣味の中で。創造性は組織的な仕事の中では始終発揮できない。仕事のなかでは、ただ他の人のすることを黙って見守ることが多く必要。文句を言わずに、要所要所を見失わず、ここぞと言うところでだけ発言する。それ以外はひたすら黙っている。私はなぜか近頃こうしている。

 そんな中で私が感じるのは、乾いた、刑務所の中で過ごしているような、ただひたすら過ぎ去っていく時間。私は、この年になればこう感じることを仕方ないのかとも思い始めていた。でも、そうとばかりは言えないのではないか、この夏何かそう感じ始めているのかもしれない。咲き始めたはまゆうの花の横で感じた命の不思議さを、日々どこかで感じていてもいいはず。額に汗して何かのために尽くす労働の幸せを、どこかで感じていたい。今は、労働に幸せを感じない。ただ、何事もないように過ぎ去っていくことを願う日々は、何か不幸せに感じる。

 趣味の世界に自分の幸せを求めていくことは、多分職場の現状からは正しい。でも、どこかで、仕事のなかに、そして職場の人間関係のなかにも、私は幸せを感じていたいと願う自分は、やはりいる。それともはてまた、黙々と過ごすだけの起伏のない職場での勤め方の中に、新しい自分のすべき道でもあるのだろうか。。。新しい生き方、感じ方の中で、私は今戸惑っている。どう表現すれば読者に伝わるかもわからない。

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 ここで文章はひと区切りがつくのだが、その他にも書いておきたいことを箇条書きにしたためておきたい。長文になって申し訳ない。

◆自分との付き合い方の変化

 近ごろ、自分との付き合い方が変わっているということを、日記の書き方から感じた。今までは自分の独り言を物凄い勢いで書き付けていくことだけが、ほとんど唯一の自己の表現手段だった。表現手段には絵を描くこともあった。絵は8年前に始めた。自分にとって良いことなのだが、いつでもできることとは言えない。ある程度のエネルギーがいるんだ。

 今、妻に話すこともできる。そしてネットの中に独り言の独白を書けば答えてくれたり読んでくれたりする人がいる。

◆インターネットの掲示板 「温泉酒場」

 ☆親星は、私にとってこの10年、空気のようにいつもそこにある存在だった。いつもそこにある☆親星。そして私をそっと支えてくれていた。ならば、めざすは 「いつもそこにある温泉酒場」。インターネットを使って、☆親星の人たちが、望むときに声を交わし合えるように掲示板を作ってみた。私のネットの世界での存在も、「いつもそこにある」事を、何年でも続けたい。(どれだけ続くのだろうか。近頃は私ばかりが書いているが、ネット人口はどんどん増えているから、☆親星のなかでもこれから掲示板を利用する人は増えていくと期待している)覗いてみたい方、この通信の最後のページにも、毎月アドレス乗せてもらっています。是非おいでを。

                http://www2.justnet.ne.jp t-macchan/fuku.htm

その他、出会ってきたもの・・・

◆からだとことばのレッスン。

 竹内敏春の弟子達数人との出会い。三好哲司。鳥山敏子。私の運命を変える出会い達だった。今は関わっていないが忘れられない出会いだった。

◆結婚。妻との出会い。

 からだの中の葛藤がどうしようもない程に溜まりに蓄まり、すんでのところで自らを破壊させる寸前まできて、ぎりぎりで出会った今の妻に救ってもらった。妻がいなければ自分の人生、すでに破滅していたかもしれない。この関係を大切に育てていきたい。

妻には結婚後、入院、退院と心配させられた。今は楽しく元気に看護学校に通っている。◆北九州に集まれ場。

 結婚に先立ち、大阪に住む今の妻と付き合うのに、一年間ほど、週に一度新幹線で北九州と大阪を行き来していた。そのため、残念ながら北九州に集まれ場からは身を退いた。その後一年程は続いていたようだが、もう一人の相棒の都合もあり、この会は中止された。残念だが、私の中では今でも、いつこの会を再開させようかという気持ちがある。一度中止してしまうと、再開するのはエネルギーがいるかもしれない。

◆整体との別れ

 野口春哉氏の整体は、10年前の脆かった私を支えてくれた恩がある。今は離れている。私の姓へのあこがれが合わない要因だったのかな。しかし、数少ない本物中の本物だと感じている。自信を持って人に勧められるものの一つといえる。その人に合うかどうかは、やってみるしかわかる道はないが。

◆休職

 私は仕事と職場の人間に嫌気がさした。ほとほと嫌になり、やめようとした。ただ、食べていくためにはいい職がないことに気付く。病気がちの自分が、完全な自営業やフリーの立場で続くかどうかも不安だった。結局、休んでも代わりが立てられる今の仕事は捨てられなかった。仕事を休んでいるときに、ある作業所と関わりをもった。これはとても不思議な縁だった。そこで小さな詩を作った。

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◆詩 ただ過ごす

なんのためにうまれてきたのか

生きているだけで何かを伝えている人たちがいるのだということを

この子は生きるのが仕事だと

あんたは生きているだけでいいのだと

私は、生きているだけで、それが大切にされる人たちの場で生きている

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

私は今迄一年で、ただそこにいるだけの人生を体験して、それがとても重かった

今、ただ時間を過ごすだけのために職場に行っていると感じるとき、         

それが大切なものというか、重たいものに感じている自分がいます   2000年8月27日

 

 

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歩行道について

歩行道普及協会という記事が新聞に載っていた。
私は今まで1年近く、万歩計を使って一日一万歩を目標に歩いてきた。
今日連絡を取ったので、今後はこのやり方で歩いていきたい。
なんだか、新しい人生の指針を見つけた気がしている。


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声の大きさを聞く耳だけ
虚しくなっている。職場には人を横からと縦からと両方見る人がいない。
いるのは人の声の大きさを聞く耳だけであるようだ。私はここにいる気がしなくなりつつある。
あほらし 私は妻に「これって右手だったよね」と尋ねるようなことを語り聞かせる。
妻に対しても済まないというか恥ずかしくなる。
私の職場には、一体自分でものを考えている人がいるのだろうか。
休職する前にもとても疑問に思って疲れていたことである。
疲れるのである。下らないことにエネルギーを浪費すると。
でも、所詮こんな所という認識が、私の近頃のクールさを演出している。
つまり、諦めようとしているというわけである。
でも、疲れは残る。心地良い疲れの正反対の極の疲れが。
1999−12−16 昨日の会議を思い出して


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:

2000年の危機

とにかく、来年の元旦、電気、ガス、水道、
物流(食物を含む全ての「物」)のどれかが
ストップする可能性が強い。
まだひどくなるかもしれんが
最低この程度は起こりかねない。

みんな大丈夫としか言わなかった。
東海村でも、山陽新幹線でも、
みんな大丈夫とだけ言っていた。
そして、放射能は洩れ、
そしてコンクリート塊は落ちた。
そして関係者は
「予測しなかった事が起こった」と言った。

誰も守ってはくれない。何も大丈夫ではない。
危険は確かにある。危機に備えようとしないのは
自分の中の不安と対面できないだけの話。

自分で自分を守る備えを。
出来るところだけでもいい。
せめて、飲み水だけでも、大晦日には風呂一杯にためましょう。
ついでに、現金は多めにおろしておくとか、
懐中電灯の電池をできるだけ買うとか、一つでもいい。
出来ることをしましょう。一つ備えれば一つ安全になる。

そんな2000年問題について、続きはこちらです。クリックしてください。
もっと知りたい方は、ここから「Y2K」「2000年問題」などで検索で きます。

危機を煽っただけだったと、後で馬鹿にされることを切に望みます。

「何が」起こるか誰も知らず、でも、必ず何かが起こります。
切符の印刷を間違える程度のことか、原油の生産がとまるか、
果ては原子炉が事故を起こすか・・・誰にもわからないのですが、

何かに備えるのは、
別に、特別のことではないのです。台風も、地震も、
起きてからではなく、起きる前にひとつ備えれば、
その一つ分、安全を確保できるのです。

塩を、砂糖を、少しだけ、いつもよりも多めに買いましょう。
非常の時には、最低限の命を守るのですから。

危険日は
今年の大晦日、何より来年の元旦、そして1月4日、10日そして
2/29 3/1 3/31 4/1 10/10 来年の大晦日

2000年問題の起こる理由は、
東海村の放射能漏れとそっくりです。
だれもが大丈夫、危険はある「はず」がないとしていた。
そのまさにまさかの場所で漏れた。

私のアパートに引っ越してきたときから一度も使わないけど、
最初からついているのでそのままにしてあるテレビアンテナの引き込み線。
まさかそんなものあるなんて、ヨメさんも知らない。
ちょうどこんな感じで、身の回りの電化製品には、

普段は全く日付の使われない、でも、人目に付かず日付を刻む
「埋め込みチップ」とが、2000年元旦の暴走を待っている

例えば冷蔵庫に日付なんて使う予定もないけど、
製造業者が例えば台湾から材料の基盤を輸入したら
「埋め込みチップ」最初からついてた。

そんなどうでもいい機能は、誰もチェックしていない。
今更チェックするのは無理
そんなチップが、例えば原発の、単純などうでもいい
誰もチェックしない、非常用電灯のスイッチなんかに、
どうかどうか使われていませんように。

チェルノブイリを管轄する役人が、
旧ソ連の原発は日付機能を持ってないからY2Kは起こらない。
不幸中の幸いだ、と述べたとか。何にもわかってないようです。
Y2Kは、日付機能を持っていない(はずの)所が暴走するから、
だから世界中が震えあがっているというのに。
コンピューターだけの話だなんてトンでもない。

誰もがまさかと思っているところにチップは潜みます。
あなたのお宅の冷蔵庫にも、自動車にも。
そしてそのまさかから、破綻はぐんぐん拡がるわけです。
たった一本の電線が自衛隊機によって切られて、数十万世帯が停電したように。



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ひどく疲れが溜まりがちです
今日は午前中仕事を休みました。あまりに体がきつくて。。。
こんなことが2週間に一度以上はあり、
ときにはそれが週に一度とかなります。
休まず仕事できたらなぁと思うのですが、
体がひどく疲れが溜まりがちです。

腰椎がずれているとこから来ているというのもわかっているのですが、
原因がわかっても対処のしようはないのです。
できれば環境を変えるしかない。
変えられないとしても、自分の方はなかなか変われない。
変われる部分は変わろうとしているけれど時間がとてつもなくかかる。

自分の障害と付き合うのは、何ともつらいことではあります。
職場を変えてもらおうかと色々思案しています。
今日はずっとそのことを考えていました。

どこに行っても体はきついだろうけど、
今の職場には前かがみ姿勢が沢山あることがつらいです。
それを言うと「逃げ出すの」などというバカが今日いました。
こういう手合いがいるから、世のなか生きにくくなるわけです。

相変わらず自分を基準にしてしか物を考えきらない、
人にしばらくぶりに再会したわけです。

私の状態を聞こうともしないで、反射的に答える仕方は相変わらずでした。
まともに人の話を聴く力のある人は探すのが大変です。

前かがみ姿勢が強い影響を与えているのは確かですが、
でも、それは弱る地盤を作り、
そして地盤の上に、心の面で
の影響を受けているようです。
それは、はた目には、心で揺られているだけのように見えます。
本人もそう感じてしまいます。
今日は午前中仕事を休みました。あまりに体がきつくて。。。
こんなことが2週間に一度以上はあり、
ときにはそれが週に一度とかなります。
休まず仕事できたらなぁと思うのですが、
体がひどく疲れが溜まりがちです。

腰椎がずれているとこから来ているというのもわかっているのですが、
原因がわかっても対処のしようはないのです。
できれば環境を変えるしかない。
変えられないとしても、自分の方はなかなか変われない。
変われる部分は変わろうとしているけれど時間がとてつもなくかかる。

自分の障害と付き合うのは、何ともつらいことではあります。
職場を変えてもらおうかと色々思案しています。
今日はずっとそのことを考えていました。

どこに行っても体はきついだろうけど、
今の職場には前かがみ姿勢が沢山あることがつらいです。
それを言うと「逃げ出すの」などというバカが今日いました。
こういう手合いがいるから、世のなか生きにくくなるわけです。

相変わらず自分を基準にしてしか物を考えきらない、
人にしばらくぶりに再会したわけです。

私の状態を聞こうともしないで、反射的に答える仕方は相変わらずでした。
まともに人の話を聴く力のある人は探すのが大変です。

前かがみ姿勢が強い影響を与えているのは確かですが、
でも、それは弱る地盤を作り、
そして地盤の上に、心の面での影響を受けているようです。
それは、はた目には、心で揺られているだけのように見えます。
本人もそう感じてしまいます。
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まじめに仕事をすることへの虚しさ、愚痴、下書
「傾斜センサー使って、子供の動きでコンピューター使えますか。」
「予約録画で番組とりたい。学校でとれますか。」
こんな質問に付き合っているうちに、この人たちが望んでいるのは、スイッチを押せばテレビが見られるほどにすぐに言うことを聞いてくれるものなのだということに気付きました。決してピアノのレッスンをするように一歩ずつ前進するようなことを念頭には置いていません。試しに何時間かかりそうか言うとそれでその人は去っていきますから

是非一度「それを習得するには5時間かかる」と言ってご覧なさい。彼女はあなたが代わりにしてくれることを、結局は望んでいると知るでしょう。

そしてマニュアルを作るほうは、やはりこのような「素人様」の意見を照準にすべきです。出来るだけ次のような意見からは離れなきゃなりません。
私が使えりゃもういい。あとは自分で使い方工夫し。こんなこと誰でもわかる。わからん方がおかしい。教師ならわかるべきだ。常識で考えればわかる云々・・

だからこそ、ほんの少し自分が手間暇かけたり工夫しないといけない所があると、忙しいことを理由にぷっつり使わなくなりました。
 

人形使い。人形作り師
作ることはそのものが芸術なんだということ。芸術にうまい下手はないということ。

どんなスーパーコンピュータよりも、世界一のソフトよりも、担任が自分の目と手と頭を使って作った小さな工夫の方が、子供にとっては何よりも価値があるのだという自負を持つべきで、よそから来た機械に捉われてはならない。よ!!!

この人たちと同じように物作りを捉えてほしい。  ああ、何という例を出せば良いのかな。。。料理かなぁ。誰もが工夫している部分。。。

私は職場の様々な所に、機械の説明を書き記してきました。使い方次第ではいい使い方が出来るけれど、使い方がわからない、そんな機械群について、出来るかぎりわかりやすく説明を書いたり、フロッピー一つで使えるようにはしてきた。でも、誰も使おうとはしない。
使いたいということだけは言っても、自分で苦労して覚えようとはしない。
私は悲しくなった。私は、色々あってやめにしている。機械を使い易くする仕事だとか、ビデオ棚を管理する仕事を自分の仕事だと思うことをやめにしている。
自分がもう傷つきたくないからだと思うし、教師の中でそれをやるのは無駄なことだと思うようになってきたからだ。彼らはしたいしたいと思うだけで、自分で出来るようになろうとする人はとても少ない。少しは入る。でも、全体の仕事として、全体に奉仕する
校務分掌としてそれをすることは、少なくとも無駄で、そのような人を選んでやるしか今の所意味がないと思っている。

そして、自分のしたことは何だったのか、、、同じように苦労している人はいるのだろうかということが気になるようになった。
 

____________________________________
 

私は、仕事の関して今、冷淡でいい加減で、無関心で知らない振りだけをしている。
自分の出来る範囲以外のことは今はしないでおこうとしているからだ。
でも、実はもっともっとしたい。かつてしていたから。
今しないでいるのは、実はとても寂しい。もっともっと仕事のことで
人から頼られたい気もする。でも、それが自分を掻き乱していたから、今は周りをじっとじっと見ている。
そしてネットに書き込む。自分の新しい表現の場として。
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今日、パソコン講習会がありました。職場に入ったマックの基本的に使い方を、
企業から来られた講師のお兄さんが教えてくれたわけですが、、、
もぅ、うんざりでありました
学校の教員たちの講習会の受け方たるや・・・

2時間ほどそこにいて、もうムカムカして、

それは今迄私が職場の者達に感じてきたムカつきその物でありました。
講師の言うことをまともにきかない。 ゲラゲラ笑ってぺちゃくちゃしゃべくる。
居眠りしているくせに井上さんはまともの扱いきらん。でもまぁするだけましかな。

そんなパソコン研修でも、ほんの僅かな人の為には役に立っていたかというと、多分大した役に立っていない 若いけれどやる気に満ちた人は既に自分の目的を持っていて、
そんな人は自分のやりたい事が説明されないのを知るととっとと寝てしまいました。

まぁ賢明な選択だったかも。私も寝なかったけど内職ばかりしていた。知っていることばかりだったから。僅かに知らないことも、自分で遊ばせてもらえばわかることばかり。

どこの誰だか、研修会があるまで触ったらいけないなどと。。。時間の無駄。でも、当分は使い道もないのだが。ネットにもまともに接続できないようだから

写真の取込なんぞいくらやってもね。まだまだ先にしか役立たない。当面は無駄。

兎も角、研修会は私がかつてやった時代とたいして変わらない。そして、誰もこの後
利用しようとはしない。見え見えに見え透いている。誰がパソコン室に篭もるものか。あんなことしても今の教師に積極的に自己研鑽しようとするものがいるものか。いたら自分でとっととやっているよ。千々和さんなんかそうだ。

何の役にも立たないことはわかっているけれど、学校というお役所は、取り敢えず研修はしましたという既成事実を作らないといけないのである。
私のしてきた研修だとか、説明書書きは、一体何の為にしてきたのか。自分の仕事は虚しくなる。こんなところで仕事していては。でもまぁ、とっつぁんもそう思ってきたのかもなあ。

ムカムカした一日であった。バカと付き合うまい。自分の資質を向上させるのである。
 

こういったことをイライラと考えていても、決して表現できるようなまともな相手は見つからないし、概して教師は元気がない。だから例え聞いてくれても、身を乗り出してきく人はいない。

というか、あまり人の意見をきく余裕のない人が多い。ちゃんと受け止める聞き方をして考えてくれる人をあまり知らない。

今日みたいなしゃべり回り見ても、結局みんな仲良くせんななで終わるのである。

それでなくても忙しいからまともにしゃべることができない。大体イライラをぶつけられるほうも迷惑だ。

というところで、わたしはやはり、ネットに求めるという形が現状では最も相応しいのではないかと思う。
多くの教育を憂える教師たちはいるし、そして携帯、PHS辺りを上手に使うことで職場からのアクセスができる。

ここ何日か携帯で自分の生活上のことについて、(たとえば家族丸ごと割り引き)なんかについてとか、会議ぎりぎりまで電話で聞くことができた。会議中の内職は、もうこのままの形で自分の愚痴をネットに流すこともできるし手紙に返事も書ける。もう、内部のことに自分の時間と気持ちを使うの馬鹿馬鹿しい。
内部でごじゃごじゃやっていると病気になる。何しろ言うべき所が少なすぎるのだ。

外と、ネットと繋がるのが正しい。学校だけで完結させるのがおかしい。とはいえ、仕事を家に持ち込んではならない。その反対をしなければならない。

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「傾斜センサー使って、子供の動きでコンピューター使えますか。」
「予約録画で番組とりたい。学校でとれますか。」
こんな質問に付き合っているうちに、この人たちが望んでいるのは、スイッチを押せばテレビが見られるほどにすぐに言うことを聞いてくれるものなのだということに気付きました。決してピアノのレッスンをするように一歩ずつ前進するようなことを念頭には置いていません。試しに何時間かかりそうか言うとそれでその人は去っていきますから

是非一度「それを習得するには5時間かかる」と言ってご覧なさい。彼女はあなたが代わりにしてくれることを、結局は望んでいると知るでしょう。

そしてマニュアルを作るほうは、やはりこのような「素人様」の意見を照準にすべきです。出来るだけ次のような意見からは離れなきゃなりません。
私が使えりゃもういい。あとは自分で使い方工夫し。こんなこと誰でもわかる。わからん方がおかしい。教師ならわかるべきだ。常識で考えればわかる云々・・

だからこそ、ほんの少し自分が手間暇かけたり工夫しないといけない所があると、忙しいことを理由にぷっつり使わなくなりました。
 

人形使い。人形作り師
作ることはそのものが芸術なんだということ。芸術にうまい下手はないということ。

どんなスーパーコンピュータよりも、世界一のソフトよりも、担任が自分の目と手と頭を使って作った小さな工夫の方が、子供にとっては何よりも価値があるのだという自負を持つべきで、よそから来た機械に捉われてはならない。よ!!!

この人たちと同じように物作りを捉えてほしい。  ああ、何という例を出せば良いのかな。。。料理かなぁ。誰もが工夫している部分。。。

私は職場の様々な所に、機械の説明を書き記してきました。使い方次第ではいい使い方が出来るけれど、使い方がわからない、そんな機械群について、出来るかぎりわかりやすく説明を書いたり、フロッピー一つで使えるようにはしてきた。でも、誰も使おうとはしない。
使いたいということだけは言っても、自分で苦労して覚えようとはしない。
私は悲しくなった。私は、色々あってやめにしている。機械を使い易くする仕事だとか、ビデオ棚を管理する仕事を自分の仕事だと思うことをやめにしている。
自分がもう傷つきたくないからだと思うし、教師の中でそれをやるのは無駄なことだと思うようになってきたからだ。彼らはしたいしたいと思うだけで、自分で出来るようになろうとする人はとても少ない。少しは入る。でも、全体の仕事として、全体に奉仕する
校務分掌としてそれをすることは、少なくとも無駄で、そのような人を選んでやるしか今の所意味がないと思っている。

そして、自分のしたことは何だったのか、、、同じように苦労している人はいるのだろうかということが気になるようになった。
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今夜もまた寝られません。でも、おとといは薬を12時過ぎに2錠
ハルシオン飲んで、起きたら手ひどく眠くて仕事に遅刻、というか、
運転できなかったので仕方なく遅れると電話。
だから、今日は半粒飲んだだけだけど、もう飲む気がしない。
こないだの朝の副作用を思い出す。何とかなる。
妻にはあまり言わない。あまり言うといらいらさせるだけだから。
ここ何日か、薬無しで寝られていたので、ちょっと残念。
明日は仕事を休めない日なのです。でも、明日がんばると明後日から2連休。
だから、辛抱する
眠れない夜の辛さは、こうしていつか誰かが読んでくれることを願って、
文章にして置いておく。誰かがきっとわかってくれる。
1999−11−26


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毎日新聞連載「先生」への意見投稿1999-11-17

どの号を読んでも、またか・・・とうんざりします。
「今の教育問題は、こんなトンでもない先生たちが起こすんだ。」
という印象を受けるのみです。

問題を持っている教師にのみ焦点が当たっています。
教師に直接インタビューしての記事のようなので
「教師が問題を持っている」ことに焦点が当たりやすいのでしょうか。

しかし、今の教育を取り巻くおぞましい情況を報道するのに
「問題を持った教師」にだけ次々と焦点を当てて、一体何を狙っているのです
か?
 

今の先生たちはどうしてこうも「孤立」しがちなのか
この疑問が、11月17日の記事では何も答えられず、
教師の馬鹿さ加減だけが描写されています。

この教師は正真正銘の完全な病気です。病気の姿をくどくどと書く前に、
今の先生たちはどうしてこうも「孤立」しがちなのかについて
私は知りたい。でなければ、結局の所、
この特殊な
病気の教師が、
病ゆえに起こした
特殊な問題
としか思えません。
 

11月16日の記事では、「すきなだけ ぶって」と
殴らせた教師の馬鹿さ加減に焦点が当たっています。
(教師の馬鹿さ加減には、どの記事でもじっくり描写されているようです)
しかしもっともっと焦点を当てなければならないのは、
わずか2行の(それでも書いているだけまだましですが)
(小学3年の)「男子は太鼓のスティックで思い切りたたき始めた」
このことの方ではないですか。
こんな子供がいることの方が、10年前ならおかしいとされたはずです。
それが今はどこにでもいる。

私はかつて小学校で教師をしていました。
「ぶってくれ」と言ったことだってあります。出ていけと言ったことも。
しかし、(わずか8年前ですが)ぶってくれと言われれば、
子供たちはそんなことを言わせてしまう自分を振り返ったものです。
出ていけといわれれば、教室から出ていくことは寂しいから
いさせてくれと懇願してくれたものです。
あまり良い手段ではなかったかもしれないが、
けれど、何とか通用する手法だった。

この私の文章を読んでいるあなたは、
今の会社から出ていけと上司に言われたら、
「出ていったる」と叫んだり、上司を殴ったりしますか?子供時代はどうでし
た?
今の子供たちはやるんです。
それを親は何も言わないので。
社会も知らぬふりだから。

ここわずか10年程度で、とてもおかしくなってきた。大人も子供も。社会も
このおかしさと、はっきり言っておかしな子供たちと
付き合うしかない先生という困りぬいてる人の姿が、一連の記事では見えてこな
い。

酔っ払いや暴力団を相手にするしかないおまわりさんの苦悩
毎晩夫に暴力をふるわれる妻、親に虐待を受ける子供。
教師はいくらんなんでもそういうレベルでは悩んでいなかった。10年前なら
それを今の教師達が抱えているのに、そのおかしさを記事は伝えていない。

普通の人なら、いや、人間的力量を多少とも持った人ですら、
今の子供たちに接する人たちは、ナイフで刺し殺されることを
どこかで覚悟していないといけない、そんな情況でなら
ごくありきたりの神経を持つ人は悩み苦しむ。

それも、まともな神経を持った
まともな人間的力量を持つ教師達が悩んでいるというのに、
経験豊富な教師達が悩んでいるというのに、

この一連の記事ときたら、
問題を持つ、半分病気の、または正真正銘の病気の
教師達の、問題を暴きたてて騒ぎ立てるために
書かれているという印象を受けます。

「こんな教師がいるからおかしくなる。」私にはそうとしか受け取れません。

「病気の人が問題を持つ」なんて、当たり前すぎて
よく記事にできるなという気分になります。

「崩壊の現場」で語る教師達の言葉だけでなく、
彼らが何を見たのか、どんな目にあったのか、それが時代情況とはいえ、
どんなにおかしなことなのか、もっともっと、
教師の中に踏み込んだ記事が欲しいものです。
病気の教師を取材するなら、

何が
彼らを病気にしたか
を書いてほしい。

そして、病気の教師や「はっきり言って先生に向かなかった人」ばかりでない
どこにでもいる教師達ですら、問題を突き付けられて悩む姿を書いてほしい。

それとも、こんな問題教師をのさばらせておく
教育行政の在り方に疑問を向けるのですか?それなら歓迎ですが。

とても疑問です。この記事には、少しでも、今の情況を
良くするねらいがあるのでしょうか。
それとも騒ぎ立てるのがねらいなのでしょうか。

ちなみに、私は「問題を持つ教師」でしたので、
今は「小学校」を退いて別のところで働いています。
私のような「問題先生」ばかりではないことを
よく知っているからこれを書きました。
もちろん、問題先生も山ほどいますが。


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掲示板の移動について
この掲示板は{最高70件の記事が記録され、
それを超えると古い記事から削除されます。}
それで時々こうして書き込みを移動させないと
過去の記録がどんどん消えます。それでやってるだけです。

表玄関にはちゃんとたっぷり入るんですよ。
下の書き込みにもありますが、ちゃんと残してますから。
表玄関には掲示板機能が持たせられないので、
わざわざ別の所に掲示板借りて、リンクで結んでいるんです。
(表玄関は、実は僕のホームページの一部です。だからたっぷり入ります。
リンク張ってませんけど)

それとも、紹介した「良質のページ」の件でしたら、これはもう、
「いい本があったよ」程度の紹介とでも思ってください。

僕は個人的にとても共感したので、つい表玄関にリンクまで載せてました。
(考えたらまだ作者の承諾得てなかったので、  いかんいかんOKもらってからにしなくっちゃ)

このページについての議論もできなくはない。(あんまり議論は好みませんが)
でも、「世の中こんな意見もあるな」程度でいかがでしょう。
私はこのページについて共感していますので、
私と皆さんの安全を確保する為に必要と思うことはします。
(例えば書き込み関係者の実名や、電話番号など、
個人のプライバシーを書いたものは、たとえ本人が書いていても、見つけ次第削除します。
私には、本人が書いたかどうか判別できないからです。
私が偽名で別の方の名前も使えます。)

ただ移動の件はこのとおり、便宜上の問題です。
日曜日なんで、まとめてやったまででした。

お返事になってましたか?
気になったらまたご意見聞かせてください。



掲示板へ戻るには「前に戻る」などで自力でお願いします。(ロボット検索を外す処置です)
 
 

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お客さん感覚について、表現の試み。試作品 1999-10

「まぁ、お手並み拝見」今の職場に私がいるときの基本感覚です。

何しろ、自分のやり方だとかは色々あったけど、

それは一年前のこと。

今年は何しろ途中から職場に入ってきたもので、

元から入る同僚が、やり方を既に作っています。

それで私は、「やりたいようにやっていただきましょう」

という感覚でいるしかありません。これは疎外感とはチト違います。

どう違うかというと・・・・

{自分がやらなくちゃ}という追い詰められた感じで、

休職以前は常に仕事に取り組んでいました。

{自分以外まともにものを考えて仕事をしている人はいやしない}

物凄い不遜な感覚ですが、確かに私は常にこの感覚に捉われていた気がします。

確かに、その頃私の周囲に、人の影響ばかり受けて

回りの人に合わせること、人の機嫌を損ねないことが

人生の全てであるという感じの人がいて

自分の意見を全然持つことを彼女はしませんでした。

私に言わせれば病気に近い同僚でした。

いや、それでも良い所は彼女には一杯あって、

結構私は好きでしたよ。でも物事を自分の頭で

考えて決めるという点では、全然でした。

 

今の同僚は、自分でものを考えて

自分で決断する能力に富んでいることが助かっています。

同僚が以前に組んだことのある人で、

とてもお互い尊敬しあっているという関係なのも助けてくれています。

 

ともかく、一年前まで、周りの人が自分で物を考えきらないから、

自分で考えて自分で実行する以外にないという

感覚を常に持っていた気がします。

 

作業所では、紛れもなく私はお客さんでした。

これはもう、憤慨でもなく、疎外感でもなく、理屈からして私は

居場所を求めていただけだったのですから

作業所の経営は当たり前のことながら私の仕事ではありません。

あらゆることに、自分が出来る範囲の「お手伝い」はするけど、

できないことはしない。できるはずがない。自分がわからないのだから。

当たり前でした。そして、ぼやぁっと5ヵ月間いさせていただきました。

 

自分がやらなくても自分の役立つことはあるんだ

ということを、ゆっくりと私は学んだようです。

自分がしゃかりきになって動かなくても、

他の人がやっていても

世の中はうまく動くんだという実感を

ゆっくりと実感したようです。

 

これで十分表現でしたかというと、

一割も表現していない気がしますが。

私の今持っている感覚を表現する努力だけをしました。

 

さくらもちさんが背中を押してくれたので、

何だか、とりあえずでもいいから書いて

みようかという気持ちになったんです。
 

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教育論文、実践集といったもの、何の役にも立たない、ゴミになるだけの

「紀要」だとか「実践集」とかを毎年作り、そしてそのまま校舎の隅に積んで、

愚にもつかない自画自賛をして終わる。

曰く「まとめてみるのは自分のためにはなった。」

教育論文に対する悪口雑言はいくらでもあるのだが。

 

今後のこんな風潮を作ると良いな。教育論文でも実践集でも思付でも、どん

どんインターネットに流していって、キーワード検索して行って必要な教育

実践を探しだす事が出来るように。そんな種を播くことが出来たら。

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めも

教師集団の何が嫌か。列挙

その中でどうやって生きていくか。

ショーシャンク 監獄としての教育職。

教育問題との関わりは? 今の世相の中で、特殊教育の立場は?役割は?

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教師集団という不条理な者達の中で生きていくこと。どうしようもない苛立ちと

鬱積した怒りを感じる。教師集団を愛せない。今まで溜まってきたムシャクシャ

した苛立ちばかりが頭にこびりつく。

でも、給料をもらうために、どうにかして折り合いを付けるしかない。でも、真

面目に物を考える教師達の文章を読むにつけ、今迄どこかに見ない振りをしてき

た教師達への苛立ち、怒りが込み上げてきて眠れない。

 

でも、内観で見付けたように、苛立ちばかりが見える人たちも、見方一つなのか

もしれない。でも、教師達の中で生きているのは、本当に何だか生きにくい。教

師達の中で生きるって、どうやったら自分と折り合いがつくの・・・

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バカらしいとはわかっていても、その親の馬鹿馬鹿しい心配性に付き合っている

我が同僚をバカには出来ませんが。しかしやはり私は思うのです。

この親の心配の仕方、そしてその心配を他人に振るやり方は、根本がおかしいと

ころがあるよと。

そんなことでは育て方まちがっているよと。そんな弱い自分でいつまでもいて、

子供が育たないよと。もっと自分の弱さと向き合って、不安と向きあって、他人

に八つ当りしなくてもやっていけるようにならないとどうするかと。

 

私はそう思います。何だか、この親の馬鹿馬鹿しい心配性とまともに付き合う気

が起きません。それを仕事だからと無理に付き合うのはおかしいのだと思っています。



追記、今日も上と同様に思うことがありました。同僚は「あまったれとる!」と憤慨しながらも、我慢強く丁寧に対応しています。もう、私はほっぽりだしたくなります。
我慢の限度がこの親は、私に言わせれば極端に低い。もう、付き合うのはうんざりします。
ここまでいいたか放題なお方は初めてです。給料貰ってるからって、付き合いたくないです。
でも有り難いことに、私達はチームで対応しているので、独りで悩まずに済みます。
相手は一人なのだから、孤独なんだから、そう言い聞かせて、今日も我慢できました。
1999−10−26


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私は今夜も寝られません。こんな苦痛がいつまで続くのかと嫌にもなります。1999-10

寝られなくてもどうということはないと割り切ったことはあります。でも、

その翌日、私は不安発作を起こしました。

神経系に異常な興奮が残ったままになり、そしてそれが半分眠った明け方の

覚醒状態で一気に不安定になったのでした。

初めてではなかったけれど、とにかくこの世の終わりと確信しました。

物凄い不安の量。パニックです。

眠れないとき、またあれが起こりはしないかと恐いです。

 

でも、それでも私は、やり過ごすしかないのです。

下関の医者に作ってもらった腰のコルセット、はめとけば

いくらかは改善がなされるのでしょうか。

コルセットは胃に物理的に突きささる形となり、

あれを付けたまま食べると吐きそうです。

 

あきらめるしかないわけですが・・・

 

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実在の団体名などを使うかどうかについて 1999-09

まず、 電脳空間にはどんな危険が潜んでいるかわからないので、

実在の団体名(個人名はもちろん)を使うのは差し控えようという考えです。

今のところ、安全を取ってこれを実行しているつもりです。

メリットは、考えられ得る限りのプライバシー保護です。

デメリットとしては 「親星」について語るときは、いちいち回りくどい説明を必要とします。

次に 抹茶の取っている措置によって、(私の掲示板からのリンクを消しました)                (検索エンジンにも登録してません)

温泉酒場掲示板は、電脳空間では他とは隔絶された位置にある。

そのため、よその人がのぞき見することは、現実的には考えにくい。

メリットは 「親星」の名前も出せるので、「通信」を読んで初めて書き込む方も

馴染みやすいでしょう。いきなり「親星」だとか何とか、 隠語が飛びかうと、

初めての方は戸惑うものです。 デメリットは やはり、現実の団体名を使うには

それ相当のコンセンサスが必要です。 そのコンセンサスというものが、

ともかく「親星」の中では生成しにくい。 わたしたちの「親星」は、カオス的な

流動性を旨としているようです。 しかし考えなけれ

まるで知らない人がのぞき見することは少なくても、 掲示板の話が

人の口から口へと伝わり、 結果的に危険な人物が悪意を持った行為

(掲示板荒らし等) 或いは、「親星」への悪意を持った書き込みを行なうなども可能です

そう、デメリットを考えていたら限りがありませんが、 電脳空間は結構恐い。

でも、恐い恐いと言っていたら、その自由さ、便利さを使えない。 さて、この先は、

やはり皆さんの手に委ねるのが一番でしょう。

皆さんの中で議論が深まることを期待しています。 ゆっくり、じっくり進みましょう。

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私が、ルールづくりを急いでしまった背景

通信にものったことだし、たくさんお客さんが見えるでしょう。 そして、仲間に

なってもらって、居心地の良い思いをしてもらいたい。 (でないとまた来てもらいにくい。)

実は、私は経験しました。 ある種のグループの始め方を・・・ グループの始め方として、

どんな集団構成にするかとか、 個人がどのグループに入るかとかについて、

延々と全体で議論しないと始めない場合がある。

そして、例えば一人の熟慮するタイプの人がどのグループに入るかについて、

顔も見知らぬ全員が延々と議論を始めることとなる。 私は、その価値も知っては

いるけどはっきり言って好みでない。 付き合うのにうんざりしてそこから出たくなる。

そんなこと、主催者が決めてやったとて何も実害はないし、 そんな個人的な好みに

全体が引き回されても どんな有り難く思う人がいるのが知らない。 大きな集団全体が

どう動くかについて、普段から個人個人が考えるのは、 戦争防止のためにはとても

大切な訓練だということは思うけど、 それは別の方法でやりたい。 わけもわからず

集団に飛び込んできた人には できればまず居心地良さを感じてもらいたい

そんな思いも背景にあったのですが、ちょっと個人で走りすぎたかな、 という気もし

ています。みなさん、ご意見お聞かせください。

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掲示板有料を選んだ理由の一つとして、

有料か無料かというのは、自分は一つの選択肢だと思う。 タダなら安い方を取った

ほうがいいに決まっているというのは、 チト考えた方がいい。 だたと言うのは、

お金以外の方法で、それを作っている人が満足を得ているということ。例えばスポンサー

広告料だとか、単純に「名誉」だとか。 私が残念なのは、無料の物にはお礼や挨拶を

言う人が少ないこと。いや、お金を払うということはそのものが「お礼」の意味がある

わけです。お金=対価です。 無料では、お礼を言うのにわざわざメール書くなりの

手間が別に必要になる。(だから多くの人がやらない)(メールウェアという独特な

方法もありますが) 私は、良いものを提供してくれた人にはお礼を言いたいし、

何よりも、実質的な形でその方を応援して、今後も良いものが作れるように 小さな力を

提供したい。そうすれば私の利益につながる。 その形に最も答えるのが今は「お金」と

いう形なのだと思っています。 将来はまた別の形に変わるでしょうが、今はお金という

形が好きです。 何故なら、その人の好きな形に替えられるからです。 お金は価値が

変わりつつありますが、やはり人類の発明した 偉大なお礼と応援の形だと思います。

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復職以前の文章

休職終了

私の休職は終わりました。今日、職場から連絡があり、9月から働くこととなりました。

長かった、不思議な5ヶ月。私にとっては何だったのだろう。随分いろいろなことを考えた5ヶ月ではありました。

ほっとしています。ご心配いただいた皆様、ありがとうございました。

 

このページを掲示板形式にできたらと研究中です

1999−08−27

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反戦映画「ジョニーは戦場へ行った」を20年ぶりくらいに見た。戦争に出たジョニーという若者が、爆撃によって手足と目、耳、口、鼻を奪われ、生きる肉の固まりとしてベッドに転がされたまま、病院の一室に隔離され、非人間的な日々を強いられるという映画だ。

果てしない日々の後、ジョニーはモールス信号によって自分の意志を伝えることを遂に思いた。唯一動かせる首を使って、モールス信号で回りの人に意志疎通を試みた。しかしそこを担当する軍人によって、ジョニーが意志を持ち、言葉を話せるという事実は闇に葬られた。自分たち軍隊が産みだしたジョニーの悲惨を、世の中の人に見せたくなかったのだ。看護婦によって開かれた明かり窓を、軍人は固く閉ざしてしまった。

〜〜という映画。

 

自分の声を発することを止められていること。声を出しても「聞きたくない」として無視され、暗い穴蔵に押しこめられること。

ほんの数年前。厚生省、そしてその取り巻きの医者達は、薬害エイズにやられた人々を、彼らの上げる声を、闇の中に閉じこめて、彼らの命の尽きるのを待ったという。自分の作り出してしまったものを闇の中に封じ込めようとしたことは、ジョニーの病室の窓を閉めた軍人と同じ行為だと思う。その意味で、戦争の時と同じ忌まわしい行為が、現代の日本にあったということだろう。

 

私達の周囲にも、この同じ行為が、実は緩やかに存在していると感じるようになった。

 

障害を持つ人々は、社会では居場所がない。今の施策のなかでは、学校を卒業したら、非人間的に家の中に押しこめられている現実がある。社会に出ていこうとしても出ていく場所がない。(小規模な作業所、授産施設など、いくらかの改善が近頃はあっているとしても、それは所詮産業社会の仕組の中に収まったものではない。)

******病気を理由に学校を解雇された教師のこと。先日新聞で読んだ。*****

どんな病気だったか忘れたが、さぞかし口を塞がれて捨てられた思いのしたことだろう。

私は、口を塞がれた人に対する気持ちが、この映画を観たときと、そして普段感じていることと、共通したものがあるということを感じている。

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"休むということ。

休む人たちで構成されている社会、休まないことを前提で構成されている社会。

病人、障害者以外の健常者で構成された社会

健常者という言葉があります。そして現代社会は「健常者」で構成されているのだという幻想があります。健康な人々で構成された社会と、そして病気や障害を持ったらそこからはずれなければならないというルール。*****エトセトラ

なぜかKさんだけは休めない状態。どこかに休めない人が必要なのか・・・休むことを

認める社会というものはできないものなのか。

しかし、Nさんは休んでいる。

 

作業所の叫ぶ人。その人に向き合うということ。子供の叫びに向き合うということ。今月号EG通信を読んで思ったことです。

 

実は私もその健常者のつもりで今まで給料をもらってきたのですが、なぜか今、病人というレッテルをいただいています。

 

私は、病気休職という状態から、復職ではなく、ずるずると名目上の「病気」の状態に居させられています。そして校長から言われたことは、簡単に言えば「おまえは社会に出てくるな。」「家と病院で生活していろ。」という要求です。病人は「健常者」になるまでは出てくるなということです。障害者は「健常者」でないが故に、今まで(今もかなりの程度)社会から締め出されていたわけです。

 

名目上の病人である私が、職場に出ていこうとしてそれを止められましたから、社会は、病気ではない人によって構成されていなければならないようです。

 

私はいま、憤懣やる方ない状態だ ともかく、私の休職は役人によって勝手に決定された。医者も校長も、私自身もOKといっているのに、役人がわずか3分の面接で決めた。

医者の診断書は、「仕事に出て良い」という中身だった。教育委員会は一体、私の休職に何という名前を付けているのだろう。病気休職しか名前が付けようがなかろうということはわかる。何という名前の病気だ?医者が既に治っていると言っているのに、勝手に役所が何という名前の病名を私にかぶせたかが聞きたい。何もないだろうけどね。

私は無理矢理休まされていた。私は理不尽な休みを強いられていた。誰もそう言ってくれない。管理職も仲間の教師も、そう言って腹を立ててくれる相手はいない。妻ですらこの件については理不尽に冷たい。私が休職に入ったときの態度が勝手過ぎたからバチが当たったなどと平気で言う。そんな問題ではないだろうに何もわかってくれない。私は憤懣やる方ない。せめてここに書いた。誰かこれを読んでわかってくれ。

 

と思うのだが、それを皆に聞いてもらったのだが、皆は重苦しくなったように感じた。私は今少し自分で考えていて、何だか、「気をつけて仕事すればいいやん。今は今のできること一生懸命すればいいやん。」という気持ちがふと

湧いてきた。

5ヵ月前と同じく、またも面接はわずか10分足らずで終わった。そして最後に私は聞いた。「復職できるでしょうか?。」お茶を濁してような答えの後、面接官はこう答えた。「我々だけで決めるのではないということです。」これが結論なのだろう。つまり、

この場で私が何を話そうが何を聴こうが、この面接は「ともかく私を面接をした」という形を作るだけの儀式でしかない。結論は私の顔も見ない役人が、どこかで(私をいつまで休ませるか、或いは・・・という)筋書きを既に決めている。おそらくは、神経症で休むような危ない教師は、
ちゃんとたっぷり休ませましたとでも言い訳するために)自分等の都合だけで私の進退を決める。一体どこの誰が私の運命を操っているのか。私の代わりに今職場では、非常勤講師が働いている。その給料と私の給料と、
二重に教育委員会は払っている。何でこうまでして、私の隔離させられているのだろうか・・・・

妻は私の怒りに付き合ったり向き合ったりするのは、今は苦手なようだ。情けないが、今は、私はこうして皆さんに私のやる方ない怒りを聞いてもらうしかない。

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 近況報告『★居場所』について         休職中の教師より

 

 私は体調不調のため昨年10月から仕事を休んでいました。4月からは元の仕事に戻るつもりで準備を調えていました。ところが、わけのわからないような事情で、8月一杯まで休まねばならなくなってしまいました。9月からも働けるという確証はありません。収入も何だかおぼつかなくなってきました。今は貯金を食い潰す生活です。

 

 それよりも自分の毎日の『居場所』がなくなってしまいました。朝起きて、食事をしたら、もうその日の予定がない。なんにもない。全くない!! 仕事への復職がズルズル延ばしにされている不安とショックも手ひどいものでしたから、気力はどんどん失われ、テレビ一つ見る気もしません。私は、気力を完全に失って、一日中寝ている以外のことを思いつけず、仕方なく一日中ゴロゴロ寝るだけの日々が続きました。家にいても何ひとつすることがありません。起きて寝るまで、妻以外の人と口を聞くチャンスすらない!ただひたすら寝るだけです。前は自分から率先してやっていたペットのインコの世話も、妻に任せ切りとなりました。まるで、定年退職した仕事一途の人が、仕事とともに生きがいを失い、またたく間に老けていくというのに似た感じでしょうか。または軟禁生活とでも言っていいのか。明日の希望どころか、今日の一日の退屈が始まるのが、朝起きる時にとてもいやでした。

 

 数か月に及ぶ私の自宅ブラブラと、そして私のあまりの気力のない毎日に、妻も精神的に落ち着かなくなりました。寝てばかりいる私の生きがいのない毎日を見るのがつらいと、さめざめと泣きだしてしまいまして、これはまずいと思い、自分の『居場所』探しをしました。妻と顔を突き合わせるだけの毎日ではなく、自分の「すること」が必要でした。

 

 迷い迷った挙げ句やっと見付けたのは、ある小さな作業所でした。軽い知的障害を持った人たちが肩を寄せ合い、地域の中で軽い作業をしてほそぼそと活動しています。

 

 以前の知り合いがやっているというだけの小さなコネを頼りに頼んでみました。幸いにも快く私が来ることを承諾いただきまして、それ以来そこに通ってます。この「通っている」という場所があるかないかが、今の私にとっては、それはとてもとても大切なことでした。人にとって、居場所というものがいかに大切か。今まで当たり前に存在すると思って気にもとめていなかった日々の居場所が、実はこんなにも貴重で有り難いものだったとは。私は今までの職場にも感謝する気持ちを持ちました。

 

 ここに集う人たちはスタッフも所員も、人のつらさをよく感じられる人で、自分にとっては学校という職場よりもはるかに人間らしさを感じるところです。作業所で人に出会い、色々な話をするなど刺激を受け、また少しは人のお役に立たせていただく中、私のエネルギーは満ち始めて、これを書くのも始めたし、色々なものに興味も戻り、雑誌などを読む気力も戻ってきました。

 

 今回は、今までどれほど生きがいのない日々だったか、そしてそれが一転して、今どれほどエネルギーを与えてもらっているか、そして「自分が何をする者か」ということが与えられていること、つまり居場所があるということが、どれほど有り難いものかを、私が今感じているのだと報告しました。また書くことがあるかもしれません。

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居場所について2       休職中の教師より

 

 「一日一日、気が違いそうになるくりゃあ長い。・・・」終戦を知らずジャングルに28年隠れ続けた横井庄一さんの言葉です。(毎日新聞H11.6/12) 一年前なら、日々のんびりしてたろうな程度にしか思わなかったでしょう。今の私は、少しだけ彼の気持ちが察せられる気がします。ジャングルでの28年と比べればごく僅かな時間。人と話す自由もあるけれど、でも今の生活、どこかに「幽閉、軟禁」という気分を感じています。

 

 私は半年間の休職の後、医師が復職の診断書を出したにも関わらず(恐らく非常に役人的な判断によって)教育委員会によってさらに5ヵ月間、復職を延長されている身です。その後も本当に復職できるのかは半信半疑です。何もすることは与えられていません。一日が何の意味をもつかも定かでなく、ただ止まったように過ぎていきます。(今ハ少シ生キガイモ取リ戻シテイマスガ。)さりとてこの理不尽をマスコミなどに訴えるのも気が引ける。いや気力がない。静かな不満の中、声も上げずにじりじりと我慢。静かな不満・不安が漂います。自分の運命を訝しがることもあります。「一体、なんでこんな日々を送っているのか。この日々の

 

意味は何なのだ。」

 

 時間が焦げ付いたように退屈に流れ、自分は社会の余計物に感じるときもあります。このようにして休職という生活をしていることが、何か特別の、運命づけられたとでも言うか、自分にとってもひょっとしたら大層な意味のある人生の一区切りなのかも知れません。

 

忙しいけれど、一日が過ぎるのをジリジリと待つこともなく、当たり前に過ぎていった働いていた日々がなつかしく、早く戻れないかと思います。(戻ったら戻ったで、ああ休みたいと思っているのでしょうが)

 

 とはいえ、ひと月程前と違い、私は今、福祉作業所にボランティアに通い日々の居場所を得ています。そして時間がそれでも余るときは近くの森林公園やグラウンドで、凝りの溜まった身体をウォーキングや肩凝りの医師の処方などで徐々にほぐしています。横井さんとは違って、この日々を無駄とは言わなくていいのでしょう。未病ともいうべき段階で私の背骨の障害から来る小さな症候。これを小さいけれどはっきりとした「障害」なのだと自覚することもできました。もう、「健全な健常者。してあげるだけの人」として振る舞うこととは一線を画して生きるつもりがあります。それなりに意味のある日々なのでしょう。

 

 私の通う作業所には、20代の所員たちが日々通ってきます。そして染め物や葉書作りなどの作業をしています。あまりにも作業収入がわずかで、とても就労しているとは言いがたい状態です。彼らが作業所から得るものは、「月に 数千円の 給与」だけではなく、

 

何より自分の居場所を得ているのです。「ここに行けば自分の居場所がある」「毎日行く場所がある」ということは、人が人間社会に生きる上であまりにも重要なのに、日常では意識されにくいようです。

 

 この作業所がなければ、知的障害を持つために彼らは「自宅でぼおっと過ごす」ことを余儀なくされてしまうのです。生き生きとした人とのつながりを奪われて、昼間に過ごすところを奪われます。居場所をなくします。作業所に通う前の私ととても似ています。私も、今そこで日々の居場所を得ています。私は今、居場所が必要で、それなしには社会で生きている感覚をなくしてしまい、とてつもなく孤独なのです。私にも、所員たちにも、居場所はとてもとても必要で、社会で就労できない人は家庭におとなしく居さえすればいいのでは、断じて断じてないのです。(ぼんやりと家に引きこもっていることを当たり前とされている人々は、実はまだまだたくさんいます。(その全てとは言いませんが)お年寄り。身体・知的障害者、病人。病気が寛解しているが、長い療養生活で社会生活への適応を学べなかった人々。etc・・・)

 

 この「居場所」という辺り、まだ私の中では叫びとでも言うしかない状態ですがとりあえず書いてみました。また書くこともあるかも知れません。

 

-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-

 

 

 

人間はここが自分の“居場所”だと感じることができる空間を持つことができたとき、アイデンティティ(自分が社会に生きている事実)を確かめることができる。居場所をもつことができない人間は、生物学的にはいきていても、社会的には存在していないにも等しい。人間にとって居場所は、社会生活の基礎である。居場所とは、人間がそこに居ることを必要とされる場所であり、また本来の自分をとり戻すことのできる場所でもある。居場所は大別すると、二つに分けられる。一つは、自分が必要とされている場所であり、自分の資質や能力が社会的に発揮される場所である。この意味での居場所を、私は“社会的居場所”と呼ぶ。二つは、自分であることを取り戻すことのできる場所である。この意味での居場所を、私は“人間的居場所”とよぶ。人間にとって、この二つの居場所はともに必要である。いずれかが欠けても、人間は居場所をもっているとはいえない。

 

 以上は学習院大学法学部政治学科 社会学演習ホームページから引用した「居場所」についての試案的定義です。(なんと、社会学の一テーマだったんですね!驚き)

 

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雑記
今日はきつくて仕事を休み。でも、一日中寝ているもの苦痛なので、新聞を読んでいると毎日が「先生」という連載をしていた。
いつもこの記事を読んで思ったことを文章にしばじめたら時間がどんどん過ぎてしまい・・・1999−11−17

大変だな。表現がしたいと思って始めたことだけど。一つ一つが実に地道な作業の積み重ね。繰り返し繰り返し失敗して、そして初めて一歩進む。それが表現という作業なのかもしれない。
さて、もういいかげんにやめよう。こうして一つのことに執着して離れられないのが悪い癖だから。根気強いというのも裏を返せば体を壊すほどの執着的態度。風呂入ってねよ1999−10−26


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