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以下は2001年以降 気の向くまま書き連ねた、いわば日記みたいなものです。

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目次


山いも掘りの皆様へ

不安の発作


うた 試作ページです


職場等での人間関係がつらくて、苦しくて、逃げ出したいような気持ちの方々へ向けて


人を依存的にする「間接、婉曲話法」の標本

2001由布院EGに参加した あとあじ


年末年始に書いた色々 2001−01−04編集


年始の日記

変な会話

ドットコムマスター


孤独だっことについて

仕事と自分の生きるべき道を、とりあえず分けて考える

 2000年秋頃書いた文書。通信に載せるつもりだった。


山芋掘りの皆様へ
山に登ると、奇妙な深い穴が掘られていることに気がついた方はいませんか。
あれは、山芋を掘るために人間が掘った穴なのです。
そんな穴をあける人へ向けて、文章を書きました。
_________________________

 秋は山芋(じねんじょ)の季節です。栽培物では味わえない濃厚な味と香りが楽しめます。高い値段で売れるので、商売で掘る方もいるでしょう。私は、その掘り終わった後の穴をひと工夫すれば、再びおいしい思いができるアイデアを提供します。

 まずは山芋を掘った深い穴を埋め戻してください。今掘ったばかりの柔らかい土を動かすだけのことです。掘った直後の埋め戻しはとても簡単です。面倒だと思われる方もいるでしょうが、あなたにも都合のいいことがあるので我慢してこの先をお読みください。
 穴を埋め戻したら、掘り採った山芋の上端5〜10cmくらいを、つるも少しだけ残してポキッと折って下さい。来年、ここから芽が出るので、芽の出る所を大切に。1m近くもあるような山芋を掘り出したら、端っこの5〜10cm位は細くて食べにくくて、そんなにもったいないものでもないでしょう。何なら2〜3センチでもいいですから。
 そして、折り採った小さな芋の切れ端を、先ほど埋め戻した穴の中に植え込んでください。つるが上になるようにして、つるがギリギリ地面に顔をのぞかせるかどうかくらいの浅さで、埋め戻してください。これで後始末完了です。
 こんなことをして、何のいいことがあるのかというと、芽のついた芋が地面近くに埋まっていれば、来春必ず芽が出てつるが延び、地下に芋が太ります。埋め戻して何年も経つと、芋の切れ端は、再び大きな芋に成長するのです。そして、何年もたってから再びその場所を訪れたら、また再びおいしい山芋を掘ることができるというわけです。
 山芋は豊かな山の恵みです。その芋を掘ってしまってハイ終わりにしないで、再び山の恵みとして成長させてください。あなたがまたそこに掘りに行ったらいいのです。再び芋を掘ったら、また芋の上の端を、少しだけ折って埋め戻してください。こうしていれば、山はいつまでも芋を恵んでくれるのです。
 掘りっぱなしで放置された穴は、落葉などで隠れてしまいやすく、そうなると落し穴と同じことになり、知らない人が足を踏み入れて、落ちて怪我をします。しかし埋め戻しによって、怪我を防止することができます。
 山芋掘りの皆様、どうか埋め戻しをよろしくお願いします。
 父に昔山芋掘りを習った者より
 (この文章は、父の推敲を受けています。)
2003年秋 記す


 十年以上 例会に参加しているのに 今日初めて 話すことのできた話題がありました。ある種の不安についてです。自分にとって かなり大事な話なのに、今までほとんど 話 したことがなかったのです。なぜ 今まで話さなかったか、そしてなぜ 今日話す気になったのかとても不思議です。
 色々な偶然の重なりがあったのでしょうか。同じ種類の不安を体験した人も、二人もその場にいて、話して下さいました。今年最後の例会で話せて、何だか新しい自分を発掘できた気分です。この、ある種の不安についてしたためてみました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 私は43年生きてきて、不安の発作に10回位みまわれています。19才の頃、初めにかかった医者からは、入眠時幻覚といわれました。とろとろっと寝かかった寝入りばなや、起きてすぐの寝呆けているときに襲われます。
 映画ターミネーター2の中で、核爆発で世界が破滅することを予感する母の姿が描かれていました。子供が公園で遊ぶ前のフェンス越しに叫ぶ母。もうすぐ核爆発で全てが無くなると叫んでいる姿。そして核爆発が起こる。全てが蒸発してしまう。その、自分だけがわかっている破局の予感は、私がよく感じるものと共通しています。
 私の不安の発作は、パニック障害と言われているものに似ているようです。「今すぐ世界の終わりが、破局が来る」という確信めいた予感がヒシヒシとします。しかも、自分の指を一本動かすだけのことで、その世界の破滅がやってくる。自分の指を少し動かしたのが原因で終末の破局が起こる。そう感じます。指は何だか一本一本が、妙にふくれてはれぼったく感じます。世界の空気が重たく、黒くなったような雰囲気を感じ、息はハアハアと荒くなっています。そんな不安が急激に襲ってきます。以上が一番典型的な感じ方です。その時によって少しずつ違います。
 初めてこれに襲われたときは19才の頃です。おびえて叫び回り、転げ回ってバタ狂い回りました。ひどく深い断崖絶壁の向こうに見える向こう岸までジャンプして跳び移らねばならないような感じを覚えています。
 大学時代も一度症状が出ました。人に不安を話して回って、どこまでも歩き続けたような記憶があります。
 25才の頃にも、職場でこれに近いものにみまわれました。運動場を隅から隅まで歩きながら、大きな声で独り言か歌かを口づさみ続けたようです。とても奇異なものに感じられたそうです。職場の人に、家に帰って休むように言われた気がします。
 29才の頃は、自宅で一人でいるときに起きました。多分寝いりばなのだと思います。言い知れぬ不安に誰かと話をしないと不安で仕方なく、当時流行っていたパーティーラインに入って色々な人に不安感を聞いてもらったものでした。でも、このころになると、時間が経つとおさまることがわかってきて、ぬるい風呂を沸かして入る余裕がありました。 38才の頃は、家で寝ていて起きたとき、妻が居るときに起きました。「不安!不安!不安!不安!」と叫びながら、色々と妻に話すというより叫び続けたようです。これは、寝ていて起きたときに感じた不安でした。息もハアハアと荒かった記憶があります。その前の晩は、トロトロと眠りが浅く、寝ているのか起きているのかわからない一夜だった気がします。
 43才の先日起きた不安は、起きてすぐだった気がします。前の夜はトロトロと眠れない一晩でした。起きかけているな、と思いつつ、我慢してトイレに行き、トイレのスリッパを履いたら破局が来るという不安を我慢してトイレを済ませました。この時のことは今かかっている医師に話をしました。今は、症状は落ち着いています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ある人にこれを話すと、自分も感じたことがあると言い、例えて言うと、「映画館で映画に没入して2時間見た後、映画館を出て、この現実がどこかおかしい、映画の方が本物の現実だったのにと感じる気分。」と話してくれました。「不安が起こったらどうしようもない。じっと通り過ぎるのを待つだけ。」と言っていました。
 別の人は、(この先どんな経過で不安発作がおさまるのかという)見通しがつけば、ずいぶん違ってくると言っていました。
 疲れた時などに起きやすいと、どちらかが言っていました。私も、疲れたときには昼間でも起こるようです。トロトロと寝付けなかった朝や、寝付けないでうつらうつらしている時も危ない気がしています。

私の場合、不安の発作(パニックというのだろうか)が起こったらどうしようという強い恐怖感はないが、代わりに、「寝られなかったらどうしよう。寝付けなくてウツラウツラになって、朝起きたときに不安の発作が起きたら恐い」という恐怖感は、常に心のどこかにありました。だから、寝られないのが恐かった。それで、寝付けない時間を差し引いて、早寝早寝となってしまっていた。(早寝にしたのは、夕食など、食後急激に眠くなるのを利用したいという気持ちもあった。ひどいときには7時前に眠りについていた。)
 寝られなかったら寝なければいいじゃないという人がいる。でも、完全な徹夜をすることはできず、結局は夜明けごろ不完全な眠りを取ってしまい、睡眠がウツラウツラ状態になる。不安の発作を起こしそうで恐い。第一、そういうことを言う人は、不眠がどれほど苦しいか体験したことのない人に限られているでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・不安の予期と言った方が誤解が生じないだろう。予期不安には、別の意味がある。


2003年12月 記す


職場等での人間関係がつらくて、苦しくて、逃げ出したいような気持ちの方々へ向けて、この文章を記します。

以下、推敲中の文章です。仮にここに置きます。

 以前私は、職場の人間関係にひどく傷ついた時期がありました。毎日ひどい迫害を受けました。モラルハラスメントです。その後遺症は深く長くつらく、何年も経った今でも思い出してつらくなることもあります。

*モラルハラスメントについて
http://www5a.biglobe.ne.jp/~with3/gyakutai/morahara/maegaki.htmより
「モラル・ハラスメント」という言葉を知っていますか?
「性的な嫌がらせ」を「セクシュアル・ハラスメント」と呼ぶことは、
広く知られるようになりました。
それから考えると、「モラル・ハラスメント」は「精神的な嫌がらせ」と
なります。
しかし、「セクハラ」が単なる「嫌がらせ」などではないことは周知の事実で、
この「モラル・ハラスメント」も、「精神的暴力」や「精神的虐待」とも呼べる、
とてもひどい人権侵害なのです。
巧妙に人の心を傷つける「モラル・ハラスメント」。
この見えにくい暴力は、被害者を精神的に殺していきます。
ひどいときには、被害者を自殺に追いやることさえあるのです。

家庭や職場の中での人間関係に悩んだことは、誰にでもあるでしょう。
あなたは、親、パートナーや恋人、教師、上司や同僚、友人などから、
精一杯しているのに認めてもらえなかったり、身に覚えがないのに、
ひどく責められたり無視されたりしたことはありませんか?
そのようなとき、あなたは、自分の努力がまだ足りないのではないかとか、
自分でも気づかないうちに相手を傷つけてしまったために
その人が怒っているのではないかと考え、もっと一生懸命に頑張ったり、
相手の説明を求めようとしたり、こちらの思いを伝えようとしたり、
相手との関係をよりよくするために、
いろいろな努力をしたりするかもしれません。

でも、もし相手が、この「モラル・ハラスメント」の加害者であった場合、
相手は、あなたのその罪悪感こそを利用し、
無視、皮肉、悪口などを繰り返し、あなたを追いつめていくのです。
しかし、その攻撃ひとつひとつは、
それほど問題だとも言えないようなことのため、
はっきりと攻撃を受けているとはわかりません。
また、たとえあなたが攻撃だと気づき、誰かに助けを求めたとしても、
まわりの人に理解してもらうことは難しいのです。
そして、もしそこであなたが反抗したり別れたりしようとすると、
相手はあからさまに憎しみをあらわにします。
そして、敵意をもった暴力が始まるのです。
あなたの側に責任を押しつける、言葉による暴力が…。

**************

 そんな私でしたから、その後何年も経っても、敵意のない人々の中でも、傷つけられないか、迫害を受けやしないかと、びくびく、戦々恐々としていました。職場の人間関係なんて、自分を傷つけるだけのもの。そんな中で、どうやって傷つかずに逃げて生きていくかが、その頃の日々の課題でした。だから、井戸端会議なんてとんでもなく無駄なこと。少しでも人と顔を合わせないで済むコースで廊下を歩きました。なごやかな人間関係なんて、職場では絶対に求められぬもの。それは家庭にあるきりでした。
 そんな私が、職場の人間関係についての見方が一変して新しくなって、職場にとても居やすくなったことを、この手記で書こうとしています。
2003年11月10日からの私は、どうやってこの職場の人達と、少しでも仲良く、少しでも友好的になれるかを探し求める目付きをしています。そうしたら、信じられないほど疲れなくなり、家に帰ってもとても楽しく色々な作業をこなしています。例えば、この原稿を書いています。それまでは、家に帰るのがやっとのことで、あとは倒れこんでしまうような日々でした。原稿書きなんて、とてもとても平日の仕事の後でなんかできませんでした。ずいぶんと変わったものです。職場の同僚もそんな私を快く思っていてくれていることが伝わってきます。近頃元気になったねと言われたりもします。

 変化のきっかけは、南極東オングル島、昭和基地の南極観測隊が、家族的雰囲気の中で日々の仕事を進めている実情をNHKが11月9日(選挙のあった日ですよ)に見せてくれたことによりました。南極観測隊のメンバーが十人位、並んでテレビ中継に出ていたのですが、まことになごやかで、愉快で、楽しくて、面白い人たちがそろっていました。観測体長は五十を超えたおじさんでしたが、一番若い二十代の隊員に向かって、「私の息子も、あんたみたいにたくましい奴だったらいいのにな」と言っていました。「あんたを見ると息子みたいに思うよ。」と言い出しそうでした。ああ、仲がいいんだなぁ。こんな人間関係の万分の一でもいいからで私も職場でそんな人間関係が築けたら、どんなにか楽しいだろうと思いました。人間関係について、良いモデルが、お手本が、NHKから私に示されたのです。

* 観測隊員たちが仲のいいのには色々訳がありました。人間どころか、苔が生きるのも精一杯という過酷な自然の中で仕事をするからには、人間関係が仲良くなければ、一瞬の判断が狂い、命をも落としかねないという訳です。そんな関係を作るために、日本にいるときから何ヶ月もかけて、共同で過酷な自然の中で訓練をするのだそうです。

 それからの私はそれまでと違い、どうやって職場の人たちと仲良くコミュニケーションを取れるか、そればかり考えて過ごしています。(以前は、どれだけ無駄な話をしないでいられるか、そればかり考えていました)とても苛立つことや腹の立つこともありますが、「いや、人間関係を大事にしよう」そう自分に言い聞かせています。そうやって過ごしていると、腹を立てさせた人が今度は自分を助けてくれたりします。そんなときは、深くお礼を一言いいます。すると、とげとげしく思っていた私の心が、ふっと丸く柔らかになっていきます。

以上、この文章終わり。


人を依存的にする「間接、婉曲話法」の標本
byT


友人のT氏よりいただいた文章です。掲載の許可を得ましたのでここに掲載します。


 標本の1
 私はかつて、肢体不自由児の養護学校に勤めていた。そこの子どもたちは、手足が動かないのが普通だった。その子達を巡って、奇妙な形のコミュニケーションが、そこの職員たちの間で交わされていた。非常に奇妙でその中にいると気分が悪くなる。ひとつ標本にして陳列してやろうと思い立って書くことにした。(見せ物にして
サラシモノにでもすれば、気分が悪くなった私の腹もおさまるかも。趣味の悪いことである。)
 手足の動かない子どもの名前をAちゃんとしよう。彼女は手足がほとんど動かない。自分で身の回りのことは全くできない。そこで担当の私、Tが、あれこれと彼女の昼食の準備をしているとしよう。Aちゃんのエプロンを準備しなければならないのを、私はうっかり忘れている。同僚の職員Mは、私に直接「Tさん、エプロンを忘れていますよ。」と言えばいいのに、どうしてもそうは言わない。代わりにこう言うのだ。
職員M「Aちゃん、エプロン持って行きなさ〜い。」
 この言葉をAちゃんのそばで聞いた私、Tはエプロンを持っていくしかない。手足の動かない、言葉もよくわからないAちゃんが、自分で持っていけるはずもない。Aちゃんにエプロンが必要なことも私にはわかっている。ただ私が忘れていたのだ。Aちゃんに言われたところで、Aちゃんは手も足も口も出せない。
ならば、私に直接、「Tさん、エプロン忘れているよ」と言えばいいのに、職員Mはそれを言いたがらない。どうしても「Aちゃん、エプロン持って行きなさい。」と言うことで、暗に私に持って行くことを伝えようとする。直接言うのがどうにも嫌いなようだ。ご本人はこうした婉曲な言い方の方が気分がいいらしい。こちらはひどくムナクソ悪くなる。「Aちゃん、エプロン持って行きなさい。」と言うことで、Aちゃんの人権を大切にでもしたつもりだろうか。全然そんなことにはならないのに。私に直接言っているわけでもないから、私は何も返事のしようもない。
 この手のコミュニケーション(以下、「間接、婉曲話法」)も、Aちゃんのように全く手も足も動かない、言葉も話せない相手なら成り立たないわけでもない。私も成り変わりに徹して、「はーい、忘れてましたぁ。エプロン持っていきまぁす」と、Aちゃんの立場で話すこともできよう。
 同様のコミュニケーションが、赤ちゃんを持つ親などで見られる。見知らぬおじさんが赤ちゃんに向かって、「坊やいくつでちゅか〜?」等と聞く。母親は、まだ子どもが喋れない場合「8ヵ月で〜す」などと赤ちゃんに成り変わって答える場面はよく見られる。だから、職員Mが奇妙極まる話し方をしているというわけにはいかない。
 ところが、少しだけは手足が動き、知能も高めの子どもが相手だと、話はとてつもなく複雑になってくる。私が担当したB子は、そんな手足に少しマヒのある子だった。自分でエプロンを脱いだり着たりは、これはちょっとやそっとではできない。介助がいる。そんなB子に、職員Mはまたこのように言うのだ。
職員M「B子、エプロン着なさ〜〜い。」
 B子対してに「エプロン着なさい」と言われた場合、B子の立場としては、なんとか自分で着ようとするか、さもなければ近くの人に援助を求める必要がある。そう簡単に自分で着られるはずもない。自分から私に、「エプロン着せてください」とハキハキ言える子ではない。間接的に職員Mは私に「エプロン着せて」と指示しているわけだ。私としては、非常に複雑な判断を強いられる。職員Mは、B子にエプロン着なさいと言った。それなら私、Tは、B子がおぼつかない手つきながらも、エプロンを着ようとするのを見守ればいいのか。この指示は職員MからB子に言われたことだから、私はB子が自分でするのを邪魔しないで待っていればいいのか。これがそうもいかない。待って待って待ち続けるのは、ひょっとしたら教育的なのかもしれないのだが、現場の流れとしてはそんな小さなことに時間をかけていたら肝心なことができなくなるという事情がある。するべきことは山ほどある。ならば、B子への指示は、彼女のできる範囲をちゃんと考えて出されるべきだ。しかし言う方のMは全然そんなことは考えていない。次から次から、職員MはB子に、

あれしなさいこれしなさいと指示を出すわけである。そんなに何もかもB子にできるはずもない。結局

T「B子、手伝おうか」 B子「うん」
ということになり、私が半分以上着せることとなる。
Mは暗に、私がすることを、求めるとはなしに、結局求めている形だ。
 B子にしても人格を傷つけられる言われようである。B子が自分でしなさいと言われたのだから、B子の中では少しでも、「しようかな」という気持ちが動くだろう。でも、彼女がするのを待たずに、次々と回りが代わりにしてしまうことになる。Mが次から要求するから、Aちゃんは追いつかない。回りがするだけだ。このようなことが続くと次第に「自分がしなくても人がしてくれるからいいや」という、人まかせの性格を形作ることとなる。
 私はほとほとこのまだるっこしいコミュニケーションが嫌になり、一度職員Mにこう言った。「B子にできもしないことを言わないでほしい。私にしてほしいのなら直接、「Tさん、〜してほしい」と言ってほしい。」こういうと職員Mは、「いえいえ、そんなつもりじゃありません。私がB子に〜しなさいというのは、そう投げかけてB子がどう受け答えするかを待っているのです。だからTさんはなにもしなくていいです。」とはっきり答えた。そこで私は彼女がこの奇妙な「間接、婉曲話法」を使うときは無視することにした。
職員Mはしばらくはこの「間接、婉曲話法」を控えていたようだ。しかし自分の言ったことは2〜3日もすると忘れて、また日常的に使いだした。
 何度かMとB子と3人だけの時、例によって「B子、カバン取ってきなさい。」などと言い始めたので無視していた。彼女の言い開きのとおりなら、Mは「カバン取ってきなさい」とB子に投げかけて、それにB子がどう受け答えするかを待っているはずである。何のこたない。Mは自分でカバンを取ってきたのである。結局B子ができるまで気長に待つなどという教育的な考えは何も持っていないことが立証された。近くにいる私に「やってやりなさい」と婉曲に言ったつもりだけど、きいてくれないから自分でしただけである。B子にすれば、自分がないがしろにされていることを感じないだろうか。どうせあなたは何もできないからね、と暗に言われているも同然である。
 「B子〜しなさーい」と婉曲に私、Tに指示を出すMに対して、「うるさいから横から余計なこと言うなと」言いたいのだが、私が忘れっぽいこともあり、職員Mは私の忘れている大事なことを指摘していることも多く、なかなか「黙ってろ」とは言いにくい。職員Mにしたら、私に直接忘れてますと言うのが気がひけるのだろうか。しかし私にとって、この手のコミュニケーションは非常に不愉快であった。しまいには私もこれを無視する戦法に出る。しかし今度は、近くにいる別の者が私の代わりにやるだけだった。私が無視しても職員Mは一向に困らず、いつまでも「間接、婉曲話法」を使っている。そんな日常が彼女の回りでずっと流れていて、それが彼女にとって当たり前になってしまったのだろう。

標本の2
交流分析の言葉では、この「間接、婉曲話法」は、「裏面交流」と呼ばれている事柄の中に属するようだ。{根本橘夫 平成11 「人と接するのがつらい・・人間関係の自我心理学」文芸春秋 文春新書074 p42より引用}(前略 筆者)
言葉で表現されたこととは別な内容を伝える交流を、裏面交流といいます。
 裏面交流には人間関係に波風をたてない効用があります。しかし、これを多くもちいる人と一緒にいると、不愉快にさせられます。それは、じっさいには強制されているのに、あたかも自分からすすんでことを行なっているかのようになり、本来、自分が負わなくてもよい責任が負わされてしまうからです。次の例でこのことが理解できるでしょう。
 ある教授は、大学院のゼミの時間に空を見上げ、次のように言いました。
「今度の日曜日、うちは引っ越しでね、晴れるといいんだが」
 この言葉は天気を祈って言ったものではありません。「だから、君たち手伝いにこいよ」と言ったのです。そして、ゼミの学生たちは「すすんで」手伝いにいかなければならないのです。(引用終わり)

標本の3
 同じようなことを経験したことがあると話してくれたDさんがいた。
 彼女Dさんは、夫の母と同居をはじめた。流しに洗いものが溜まっていても、彼女としては疲れている時など翌日に回したいときもある。しかしDさんの母は洗いものが溜まっているのが嫌なのだ。その気持ちをDさんの母はこう表現する。「私が洗うよ。」と言うのだ。実はDさん洗って下さいと、暗に伝えているのだ。
Dさんは嫌だったので最初はそれを無視していたが、それでは同じ家に住むものどうし、コミュニケーションがうまく取れないので、何年もかかって、彼女が我慢できる程度には、その婉曲的コミュニケーションを受け入れるようになったという。(例えば洗い物をするようにした)という。

標本の4
 このような形の「間接、婉曲話法」は、Mのいた肢体不自由児の養護学校では極めて日常的に見られた。今は別の知的障害児の養護学校に転勤したが、こちらでもやはりよく見られる。「Cちゃん、T先生に〜してもらいなさい」という形である。Cちゃんは自分で私に〜してくれと言える子ではない。ことばを持っていない子だから。何のこたない、私に婉曲に「〜させてやりなさい。」と言っているのである。
 前述のMが特殊な歪んだ人というわけではなく、この手の「間接、婉曲話法」は障害児の学校に勤務する職員達にかなり一般に見られるといってよいだろう。
 標本の4
 私が担当していた知的障害を持つEくんに、ある日昼食を食べさせていた。(昼食はランチルームで全校一斉に取る。つまり、他の職員たちも横で子どもに食べさせている。)Eくんは好き嫌いが激しく、気に入らないものは口に入れようとしない。持たせたスプーンで自分で口に入れたものを吐き出してしまった。私はパシッと彼の口のまわりを叩いた。口に入れた物を吐き出してはならないと、口で言って伝わるとは思えなかった。それに対して近くにいた女性の職員は奇妙な言い方で私に批判を伝えた。
「おお おお Eちゃん、かわいそうに。痛かったろう。T先生に叩かれたね、痛かったろうね。」
やはり私に直接伝えはしないのである。体罰は法律違反である。そう伝えれば済むことである。
こうした人達と過ごすうちに段々わかってきた。この人たちは、直接人にものを言うのがとても苦手なのだ。病的に苦手なわけだ。



後記 かつて例会でこのコミュニケーションの話をして、「そういうのは病的だ」と言ってくれた人がいた。それを聞いて本当にホッとした。まさしくその通り。非常にいびつで歪んでいる。それなのに、いびつなコミュニケーションがあまりに私のまわりにあふれているので、ともすれば自分の方がおかしいような気になってしまう。その奇妙さが、いくつかの標本で伝わっただろうか。これを読んであなたも、どうぞ「こんなの変!オカシイ!」と思っていただければ幸いである。

私は書き抜こう。私を守る歌を。私の周りに群れ為す者達のことを


2001,11/23掲載



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黙っていることそのものがいい
黙っていていいんだ−−−−−2001由布院EGに参加した あとあじ
                                     抹茶
 以前の私はEGに参加したら必ずひと騒ぎ起こしていました。自分の中に抱えていたムシャクシャしたいらだちと、孤独の飢えと、生いたちへの恨みつらみ。そういったものを精一杯吐き出して吐き出し続ける場、私にとってEGはかつてそういう場でした。怒鳴り散らし、罵倒し、号泣し、反吐を吐き散らすように恨みつらみを長々と語ったものでした。まさに爆弾を抱えて、その信管の外し方を探して回る日々でした。沈黙とは縁遠かったようです。
 それから長い月日が過ぎ、今回のグループは、どうにも静かでした。発言の少なかったある参加者が「黙っていられて良かった」と語ったことがとても印象に残っています。沈黙はずいぶん続きました。話す人の話も、穏やかな中身が多かったです。私も、話すことはあっても、以前のような爆弾を抱えたような気分は少しもありませんでした。ただ、食堂で誰かの横に座るときだけは、「何か話さないといけないのじゃないか。」という気持ちも少しは出ました。しかし、グループでじっと黙って座っている時が長かったので、多分今までで一番長く沈黙を体験したので、人と黙って一緒にいることに、不安を感じなくなりつつありました。グループで人といるときも、食堂で誰かと食べているときも、帰りの列車が一緒だった方と黙って横に座っていたときも、黙って人と一緒にいることが、不安でなくなっているのに気付きました。かつての気分とは全く違った、話さなくてもいい何か安心感めいたものが少しですが自分の中に芽生えていました。
 以前私は職場で「監獄に入れられた囚人」のような、乾き切った、殺伐とした、隣の人が何をしでかすかわからないような不安めいた気分を味わっていました。これは、大きくは体調が影響していたのでしょう。漢方治療でかなり改善しましたから。病気と長い休職が私に与えたショックめいたものもずっと尾を引きずっていたのもありましょう。かわって今、EGの後、私は新しい職場に移り、新しい人達と仕事をしています。EGの食堂で感じていたような、黙っている人もきっと悪い人ではないだろうという期待めいた、何か安心できる落ち着いたような気分を味わっています。環境が変わったせいも少しはありましょうが、今感じている、人のなかにいる安心感。これは紛れもなく、あのEGの沈黙の中で、そして食堂で人の横に黙って座っていて感じていたものでした。
 かつてのEGでの体験を手がかりに、私がずっと感じていることがありました。沈黙には黄金の価値があるのだと。でも、どうして、何がそんなにいいのか、つかめないでいました。しかし、今回のグループを経て、今日常の中で、黙っていることそのものの中に心地好さが隠れていることを感じています。
(煙草を止めたことも 沈黙と友達になれた一因です。吸わなくなってから 随分長く座っていられるようになりました。かつて吸っていた時は 常に喫煙場所を探して徘徊してい ました。沈黙が続くと浮かんでくる思いは、「煙草吸いたいな」でした。)
 かつてのグループ参加が爆弾を抱えてのものであっただけに、今回のグループの最中は、グループってこんなにおとなしくていいのかと、少しは疑問も感じました。確かにグループの間は目立って劇的な事は起こらなかったけど、今こうして日常に戻って初めて、グループの影響がわかります。確かに、人の中に黙っているとき、楽になっています。今は、職場で日常でじわじわ、あの時与えられた、「黙っていてもいい」という安心感を味わっています。ほんとに行って良かったと、じわじわと、あとあじが出てくるグループでありました。                      2001.04/09

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以下は上の下書きでした。
黙っていることそのものがいい
黙っていていいんだ−−2001由布院EGに参加した あとあじ
                                     抹茶
 以前の私はEGに参加したら必ずひと騒ぎ起こしていました。自分の中に抱えていたムシャクシャしたいらだちと、孤独の飢えと、生いたちへの恨みつらみ。そういったものを精一杯吐き出して吐き出し続ける場、私にとってEGはかつてそういう場でした。怒鳴り散らし、罵倒し、号泣し、反吐を吐き散らすように恨みつらみを長々と語ったものでした。まさに爆弾を抱えて、その信管の外し方を探して回る日々でした。

 それから長い月日が過ぎ、今回のグループは、どうにも静かでした。沈黙もずいぶん続きました。話す人の話も、穏やかな中身が多かったです。私も、話すことはあっても、以前のような爆弾を抱えたような気分は少しもありませんでした。食堂で誰かの横に座るときだけは、少しは「何か話さないといけないのじゃないか。」という気持ちも出ました。しかし、グループでじっと黙って座っている時が長かったので、多分今までで一番長く沈黙を体験したので、人と黙って一緒にいることに、不安を感じなくなりつつありました。グループで人といるときも、食堂で誰かと食べているときも、帰りの列車が一緒だった方と黙って横に座っていたときも、黙って人と一緒にいることが、不安でなくなっているのに気付きました。全く不安がないのではない。話さないでいいのかなという気分もある。けれど、それまでの気分とは全く違った、話さなくてもいいんだというような何か安心感めいたものが自分の中に芽生えていました。
 かつてのEGでの体験を手がかりに、私がずっと感じていることがありました。沈黙には黄金の価値があるのだと。でも、どうして、何がそんなにいいのか、つかめないでいました。しかし、今回のグループを経て、今日常の中で、黙っていることそのものの中に心地好さが隠れていることを感じています。

 以前私は職場で「監獄に入れられた囚人」のような、乾き切った、殺伐とした、隣の人が何をしでかすかわからないような不安めいた気分を味わっていました。これは、大きくは体調が影響していたのでしょう。漢方治療でかなり改善しましたから。病気と休職が私に与えたショックめいたものもずっと尾を引きずっていたのもありましょう。
 かわって今、EGの後、私は新しい職場に移り、新しい人達と仕事をしています。EGの食堂で感じていたような、話をしていない人もきっと悪い人ではないだろうという期待めいた、何か安心できる落ち着いたような気分を味わっています。環境が変わったせいも少しはありましょうが、今感じている、人のなかにいる安心感。これは紛れもなく、あのEGの沈黙の中で、そして食堂で感じていたものでした。
 かつてのグループ参加が爆弾を抱えてのものであっただけに、今回のグループの最中は、グループってこんなにおとなしいのでもいいのかなと、少しは疑問も感じました。でも今は、職場で日常でじわじわ、あの時与えられた、黙っていてもいいという安心感を味わっています。ほんとに行って良かったと、じわじわと、あとあじが出てくるグループでありました。                      2001.04/04
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年始の日記

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#####2001-01-31
この間の土曜日、卒業論文が届けられてから、しばらくとても不思議な気分だった。
あれから出会った人達がどんな人達だったか、各学年で出会った先生たちの名前だけでも思い出したいと思うようになった。

#####2001-01-03 (水) 09:03

一睡もなく、完全に頭が冴えきった一夜。朝9時。蒟蒻を冷たいまま食べてみる。軽い眠気。蒟蒻をまた今度はあたためて食べてみる。今夜は自分のからだとの付き合いの一夜。一つの実験。こういう過ごし方をするとどうなるか、一つの経験。そんなに悪いことではないようだ。でも、昨夜は念のため、ワイパックスを準備しといた。

#####2001-01-03 (水) 07:05
良かった記憶も、悪かった記憶も、ゴミのような記憶も、すべてがデジタル化されて、瞬時に検索できる日が来るかもしれない。
毎年出版されては紙屑となるおびただしい本達も、いつか電子メディアかする日が来るかもしれない。
そんな未来に夢を託して、私の生きた歴史を電子メディア化して残すことは、私の分身を、子供を作らない私達の子供を残すことになるかなぁ。
いつか私の生き方を見て、何かの足しにする人に出会う日まで、私の歴史は、サイバースペースにひっそりと佇んでいられるだろうか。
いつか私の歴史が出会う誰かに、私は残りの人生を使って、何を書き残すのだろう。何を残すこともできる。どんなことでも書き残せる。私次第でできる。私にしか残せない歴史を、遥か彼方未来の誰かに向けて、私は書き残したい。そして、それは書き残すという行為だけが残っていてもとりあえずはいいのだ。なに、中身はありのままでいい。司馬遷の史記を残そうというわけではない。
遥か遠い、いやそんなに遠くないかもしれない未来に可能となる、超検索技術。
文字列の羅列から、生きた意味を見いだして検索する技術。
文字も画像も、音声も、香りや肌ざわりすらデータベース化して、そしてそれらの中から、自分の今求める何かの意味を、命のほとばしりを、検索する技術が、どこか未来にできる。
今のインターネット検索技術は、十年前までは夢物語だったこと。ならばこんな超検索技術のできる日も来ないではないかも。自分の体を冷凍保存する時代なら、自分の歴史をサイバースペースに残す夢を見てもいいではないか。
私は、でき得る限りの技術で、自分の生きた歴史を保存してみよう。でき得る限りの情報を残して、その検索を後世に委ねてみよう。なに、司馬遷の史記を書かなくともいいのだ。未来の超検索技術に委ねて、私は生きたいように生きてそれをできる限り記録してみよう。
ワープロが世に出始めて、こんなことを考えているのは、私以外にどれだけいるだろう。
ところで気になるな。氾濫するホームページ、情報料金支払われなくなったら、どこかに消えてなくなるのか。それとも、あらゆるデータを記憶に残せる技術が出現するのだろうか。
#####2001-01-02 (火)
浩さんのメールアドレスを棚にしまったことを、完全に忘れて次の行動をしていた。
何だか、とても自分が恐くなった。今年から少し酒を謹むかなぁ。大切なことの前には飲まないことかなぁ。
#####2001-01-01 (月)
超能力のチャクラを通すため、幼稚園の先生から下顎に穴を開けてもらう夢だった。びっくりしたけど一瞬で穴が開いた。


ドットコムマスター

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わたしは、教員の社会にはほとほと嫌気がさしています。
今後長い人生を、教員達と生きていても
大して得るものはないと確信しています。

(でも、収入だけは、これはとても確実に入ってきます。
これは捨てがたい。今日、ボーナスがでました。
それに休みも多い。とてもおいしいものです)

人生に夢と希望を持ち続けるためには
私にとっては、教員社会に居続けることは不毛です。

自分の生活を確保しつつ、なお、夢を育てていくために
私はドットコムマスターを取ろうと思います。
これは、12/7の新聞で発表があったNTTコムの創設する検定試験です。
IT社会の知識に資格を認定する制度です。
1/15から試験受け付け開始です。もうすぐ始まります。

教員を続けて生計を得ていても、(夢をすり減らす環境に居ても)
その余暇を注ぎ込んで、夢を育てる計画を少しずつでも
実行していきたいと思い始めました。

たとえ夢の実現が、つまり教員をやめて暮らす夢が
残念ながら定年の時になろうとも、
(定年まで、食べるために教員を続けることです)
定年後に、自分の夢を育てる仕事を始められるように、
準備をしていけばいいではないかと、そんな具合に思うと、
ずいぶん人生が楽しく思えてきました。

今後、この夢がどのようになっていくか、
聞いていただける方がいたら、また報告したいと思っています。

夢を食っては、生きてはいけない。
でも、生きていく行く先に、夢という星がなければ、
食っていても、おいしくない。生きていても楽しくない。
夢を育てながら、食べていきます。 2000.12/8



変な会話

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養護学校に勤めています。ここで過ごすと変な日本語が教師の間に横行していて、気分が滅入り、言葉を聞くのも話すのも、言葉で行動するのもいやになります。というのは、こんな感じです。
Cちゃんは、手足も動かず、耳もほとんど聞こえていない子です。
A先生「Cちゃん、エプロン着なさ〜い」
これは、近くに入る介助者である私に、遠回しに「エプロンを着せてやってください」と言っているのです。直接私に「着せてやってください。」と言えばいいのに、わざわざCちゃんに向かってしゃべっているように言うわけです。一見その子の人権を尊重しているかのような気分になるのでしょう。
 聞こえるはずもない、動けるはずもない子に向かって「エプロン着なさい」と言って、そばにいる人に遠回しに「エプロン着せて」と言っているつもりになっているのは、聞いているほうからすると、とても気持ちの悪い、どうにも奇妙な感じで嫌になります。
 こんな私の気持ち、わかる方、とくに養護学校にお勤めの方、おられますか

 2001−01−07 ある掲示板に投稿

孤独だったことについて
 2000年秋頃書いた文書。通信に載せるつもりだった。

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 私は、長く孤独でいました。特に独身時代、私の生活の全ては、誰かと一緒に居たいという、孤独を癒そうとする渇きから出ていました。精神生活の全てが、孤独をいかに癒すかにかかっていました。そこから色々な体験もしました。特に結婚と休職は大きかったです。それらを経て今、私は妻といると孤独の渇きを感じないでいるようになってきた気もします。

 孤独を癒していた時代から、エンカウンターグループには特に関わってきました。それは孤独を癒すための道具としてEGを使っていた部分が大きかったからです。EGに関わること自体が孤独をひととき慰める手立てでした。
 今、私は妻といれば満たされている自分を感じられます。では、もうEGは必要としていないかというのでしょうか。というよりも、妻との関係をも含む人間関係を深める体験を、生きる上で忘れていていいのでしょうか。そんなことはない。でも、今、私はそれを忘れているかのようです。そして、そんな私を、今じっと私は見つめているのです。何だか不思議な面持ちで。あんなに飢えたように求めていた人間関係は、私にとっては何だったのでしょう。妻といれば完結するのでしょうか。
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仕事と自分の生きる道を分けて考える
これも、2000年秋頃に書いた、投稿するつもりだった文章です。

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                                     抹茶
 仕事と自分の生き生きと生きる場を、とりあえず分けて考えるやり方は、自分に今ふさわしいようです。とりあえず分けるにことついての話をします。
 自分は今、障害者と言われる方々と関わらせてもらうことで日々の糧を与えられています。この仕事は、社会的にはとても今評価が高く、立派な仕事だと思われている節があるります。でも、この仕事をしているからといって、生きることの主目的、生きる意味、生きがいを、生きることの素晴らしさを、この仕事に見出ださなければならないわけでもないということです。
 仕事は仕事で立派と言わていれるけれど、でもとりあえず飯を食う手段でしかない。この仕事をしているからと自分を評価されるよりも別のところで認めてほしい。自分らしさを、仕事とは別のところで表現したい。
 なぜこんな、下手するとお高くとまったと見らる言い方をするかいうと、私は職場をあまり好きでないからなのでしょう。職場の同僚集団の中で、個人として価値を発揮していくのは、今のところ疲れてしまい、嫌なのです。職場集団の中で個人が創造性を発揮していくことの限界に気付き、自分だけのやり方で、自分に合ったやり方で何かをやるには、必ずしも職場の中でなくてもいい、ということを認め始めたわけです。
 以前は、仕事に生きがいを見いださなければ生きる価値がないとまで感じていました。だって、価値のない労働、金を得るためだけのお勤めをすることって、その働いている分だけの時間、自分を失いそうな気がしませんか。だからこそ私は、仕事にプライドを持ち、「私はこれができる人間だ。ここで働くからこそ輝くのだ」と言わんばかりに仕事をしていました。なんだか一見立派ですが、どこか疲れました。疲れが溜まっていったのか、とうとう自分の心と体のバランスも失いました。仕事も長く休みました。
 そして結局今は思います。所詮職場で自己実現をするなんて、限られた範囲でしかできない、自分の望むほどはできないと。もちろん、仕事をしていてやりがいを感じることもあります。でもどこかで「自分の本当にやりたいほど充実してはいないな。でも我慢しておこう。自分がやりたいだけやったら、人が煙たがる。」と言ってる自分がいます。これは、ヒネた様ですけど結構健康なことではないかと思っています。
 何か、こう書いていたら常に生きがいを感じたいがために、命を輝かせようと焦っていた頃の自分の近くにいた人たちは、疲れただろうかな。ごめんなさいという気もしてきました。また、自分の近くに生きがい感じたい人が居たら、ちょっと疲れるけど、この人は今頑張って生きているのだなと思うことにしようか。あまり煙たがらないでいようかなという気もしています。
−−−−−−−−−−−−−−投稿分、ここまで−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 私の想像的な嬉しいワクワクする生活のためには、電子入力機器が身近にあることが欠かせない。こんなことが自分を大切にすることにつながっている。ただ、それが俺達の夫婦の生活を大切にすることにつながっているのかどうか、本を読んでみたいという気がしている。
 読んでみたけど直接にはわからない。疲れ目になりつつあるので酒を飲んで、そしてまた文章を書いている。


 文豪5GXという古いワープロを修理に出す手立てを電話して聞いてみた。こんな世間との連絡ごとも、月曜日がたまたま休みの日でないとできないでいる。仕事上やむをえないのだが。今日しかできないことって何だろうかな。一人でいるってこと。月曜休みだってこと。