1999年版若松軍艦防波堤

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軍艦防波堤付近は現在工事中のため、近寄るのが困難だそうです。2006−02−28

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崩壊しかけた
若松軍艦防波堤に
修復工事がなされました。

ご意見はこちらへどうぞ

いただいた御意見と回答

解説/軍艦防波堤とは?

軍艦防波堤関係資料
若松海友会よりいただいた資料です

道案内地図
軍艦防波堤はここにあります

崩壊部分

現状報告

リンク

かつての軍艦防波堤1999年頃 崩壊以前

ご意見
落書き帳ひとことどうぞ または

E-mail:t-macchan@ma2.justnet.ne.jp
 


お寄せいただいた声は、このページに引用させていただくことがありますのでご了承ください。
お名前などプライバシーは固くお守りします。

さらに、リンクのページからたくさんの貴重な資料満載ページに飛べます。是非お読み下さい。


崩壊→修復部分
1999年夏頃の姿
まだ船型をとどめています
 

この頃の詳しい姿はこちら大型写真有ります

2000年1月10日
自然崩壊?
人為的破壊?

港湾局に電話すると、近頃工事などをしたのではないとのこと。(2000−01−11)
自然崩壊でしょうか。
去年の台風かも・・・

何という悲しい姿に・・・

2000−04−01

つい最近修復されたばかりのようで、
コンクリートも真新しかったです。
崩れ落ちていた部分も、どうやったのか上手に元の形に固めてありました。
横の部分はさすがにもう、コンクリートで固めないとどうしようもないようでした。
ここの工事自体は3/28に終わったとのこと。4/8くらいに最終検査をするのだとか。
2001−05−04戦艦大和について
先日、戦艦大和の沈没の姿がCGでテレビ放映されました。
それを見て、以前撮っていた海底に眠る大和の姿をもう一度ビデオで見てみました。

海に沈んだ大和の姿を見るにつけ、思うのです。
あの大和のすぐ横で闘って、生き抜いて戻って来て、
そして今、若松のコンクリートの下に眠っている「涼月」と「冬月」
また、眠る位置を伝える「柳」
こんなに身近に眠っている「戦争」

この姿を、この事実を、今の世の人に、そして後々の人の脳裏に、
伝え、残していかなくてはと、そう思うのです。
これからの私の長い時をかけての仕事となるでしょう。

具体的にはどんなことをしたらいいか考えます。
私の心に、こんな構想も湧いてきました。
「柳」の由来を示す現地の看板の横、「涼月」と「冬月」の眠ると思われる地点に、
二艦の眠ることを示す看板などを作ってはどうでしょうか。

平和の礎となった人々に対して、その生きざまの意味を
少しでも考える手がかりを残すことは
現代に生きる私達にとって大きな意味があると思うのです。

この文章をもとに、もう少し一般向けにわかりやすく文章を直して、
「柳」保存に手を貸してくださったあの市議会議員さんなどに働きかけてみてはどうかと思っています。

現状報告
2000−04−01
修復も考えていると聞いてはいたのですが、こんなにうまく修復されるとは、思ってもいませんでした。せいぜい看板が新しくなった程度だと思っていたのに、すっかりきれいにされていて、全くここは来るたびに驚かされます。
錆びていた部分は上の縁の部分が上の縁の部分だけですが、質感を損ねない程度の焦げ茶色のペンキなどで塗り固めてありました。
艦尾の方までずっと全周にわたって、焦げ茶色ペンキのような修復は為されていました。
これで少なくとも少しは長持ちしそうな気配です。全体の印象も、艦の形を損なうような修復は最小限にしてあったようです。艦首の部分のコンクリートは、もうボロボロだったので仕方なかったでしょう。
それにしても、よくも横にずれて朽ち果てるしかないと思われていた艦の残骸を、うまく繋ぎ合わせてくれたものです。
明らかに、艦の形と雰囲気を残そうとする、明確な意思を読み取ることができました。
りがとう。本当にありがとう。私はそう言いたいです。
看板もきれいになりました。

4/3に電話で港湾局に聞いたのですが、「うわさだが、年に一度、関東の方から花を手向けに来る人がいるらしい」とのことでした。
私は港湾局の人なら知っていると期待していたのですが、うわさを聞いただけとのこと。どなたか、花を手向けに来る人のことを知りませんか。私も一緒に花を手向けたいと思います。
 

この貴重な船体は、日本に唯一残ると言われる旧日本海軍の駆逐艦です。
(専門的には「軍艦」という呼称ではなく「駆逐艦」または「(軍属)艦艇」を使うそうです。)
(詳しい解説をM・S様よりいただきました。その指摘により、一部記述を訂正。2000-01-23、同02−15)
 

ほぼ船の形をとどめたものとしては、日本にここだけにしかないと言われていました。
その横に眠る「涼月」「冬月」とともに、精いっぱい生きて、
そして死んでいかれた方々の生き様を忍ぶ貴重な記念碑でもあったのです。

私のぺーじに、まだ船型をとどめていた時の写真と、どうしてここまで私がこだわるかを書いています。


1999年の崩壊(大型台風によるもの)と、その後の港湾局による修復

船体のブロックがそっくり横にずれた状態。 もうずたずたでした
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
よくもここまで修復できたものです。
(艦に乗って艦首を見る)
2000−04−01
2000−01−16現状
艦尾から見ると、まだ形をとどめてます。
向こう側の艦首が壊れていました

解説/軍艦防波堤とは?
一目で分かるわかりやすいページはこちらです。
簡潔に紹介していますのでリンクさせていただいてます
この間まで載せていた、私の
軍艦防波堤についての紹介ページです。
       ↓         ↓         ↓        ↓
 
以下はこちらのページのM・S様よりいただいた「柳」に
ついての詳しい解説です。ご指摘ありがとうございました。
軍艦防波堤の紹介看板です。一般市民向けのわかりやすい紹介文です。防波堤の横にあります。
現在見えている船体は、大正年間に建造された桃型駆逐艦「柳」
で、同名の昭和年間建造の松型駆逐艦「柳」とは異なります。
初代「柳」は、昭和15年に除籍されている(中略by抹茶)
第一次世界大戦中に地中海遠征隊の増援部隊に参加して独軍相手
に英国船団護衛として大いに活躍した武勲艦であるので、貴重な
ものであることには全く変わり有りませんが。太平洋戦争中は、
佐世保にて係留され、主に旧制中学の軍事教練などに使用されて
いたそうです。二代目「柳」は津軽海峡で座礁して終戦を迎え、
大湊で解体されました。おそらく、太平洋戦争に参加した旧海軍
水上艦艇は現存していないと思います。

以上M・S様より

私が集めた軍艦防波堤関係の文献資料集です。
これらの文献には間違った記述も含まれているのですが、資料として掲載します。

 


多くの方々から、ご意見をいただきありがとうございます。
防波堤を心に留めていただき、嬉しく思います。防波堤も喜んでいるかもしれません。
ここに一部を掲載します

私の考えをまとめる材料にもしますし、皆様も、他の方の御意見をお読みいただければと思います。

NEW

涼月乗組員 M氏のお話を聞くことができた。
「戦争だけは、絶対にやっちゃいけない」
そう 涙ながらに語られた。
あの言葉を、あの言葉の魂を、
私は一人でも多くの人に伝えたい    2001-08


このページを見て軍艦防波堤に興味を持たれたMK様が、軍艦防波堤を訪ねた感想を美しい文章で書いてくださいました。
軍艦防波堤見に行きました 投稿日:04月23日(日)23時57分09秒 
抹茶さんお久しぶりです。
今日、軍艦防波堤を見てきました。
若松へ行くのは何年ぶりでしょう。
見知らぬ場所へのちょっとした小旅行で、
どきどきもんでした。
JR若松駅でタクシーのおじさんに道順を聞いて、
「あんたつりでもするね?響きの方でわかりずらいよ」
という言葉にやや不安になりつつも、響灘工業地へ。
途中、中学生に青橋の場所を聞いて行くと、
青橋を下る頃には目の前に荒涼とした草地が広がります。
「わああ すごい」と感動もつかの間、開けた車窓から
化学臭が入ってきて、うっと息を止めました。
ほとんど車も人も通ってない工場地を過ぎると洞海湾へ
やっとみつけました軍艦防波堤。看板を読むと
胸せまるものがあります。今日は風が強く海が荒荒しい
呼吸をしてるようでした。この荒涼とした廃墟のような
港と沈む夕日に映る軍艦防波堤とても気にいりました。
まるで私の心の風景のようなそんな懐かしさです。

ほんとにあそこの場所はいいですよね。
疲れてしまったとき、自分自身と出会いたいとき、
私はあそこに行こうかなと思ってます。

2000−02−13記載
下記のM議員と、先日少しゆっくり話をしてきました。その要点を書きます。
 
.当面は、軍艦防波堤をいじる計画はないようだとのこと。また、今までもいじったこともないようなので、壊れたのは多分、1999−09−24、(日付は2000−04−02修正。02−25の毎日新聞を参照して)北九州市に激甚災害をもたらした台風の為だろうとのこと。
この件については港湾局とよく話すようにしているので、秘密を持つようなこともないだろう。
・看板はもう読めなくなっているので代えるようにしたいとのこと。
・できるかぎりの壊れた部分の小規模な修理はしたいとのこと。

大規模な修理は当面予算の関係からも難しい。

また、私の考えた保存方法である、アクリル樹脂で固めるという方法も話してみました。
色々な意見を取りあえず話してみるのは大切なことだとのことで、聞いてもらえました。
アクリル樹脂で固める
朽ち果てた艦体を保存するのは、技術的にはどのような方法が考えられるのでしょうか。
水族館の水槽などに使われているアクリル樹脂で、透明に塗り固めてその中に固めて保存してしまえば、潮風からは逃れられると思うのです。そして透明ですから艦体も透けてみえます。
いわば、透明のコンクリートの中に保存してしまうという考え方です。

日光や傷などによって不透明にならなければいいのですが、表面だけ強くして傷が付かないようには加工できるのでは。このまま朽ち果ててしまうよりはいいと思います。

この方法については夢のようなことかもしれませんが、書くだけは書いておこうと思うのです。
現実は意志のなかから生まれるからです。



2000−01−22 良い進展がありました

軍艦防波堤現状2000−01−16
本日行ってみました。そして客観的には少し慌て過ぎたかも、という印象を受けました。
先週行ったときは、壊れていたことが悲しくてそこにばかり目が行きました。
しかし、今週冷静にな気持ちでもう一度見てみると、確かにひどく壊れているところはありますが、写真のように壊れているのは、全体の2割程度。全体としては、まだ十分に防波堤としての役割をしているようです。
今すぐ大慌てでコンクリートで塗り固める必然性も、傍目から見たら感じないかもしれない。そう思いました。
ただ、確かに紛れもなく浸蝕は進行しており、一日も早い保存が待たれるのは事実です。
調査活動を継続したいと思います。

3人の釣り人に聞いてみましたが、いつ壊れたのかはわかりませんでした。一人は私と同じく、去年の台風が原因だろうと言っていました。


1999−01−22作成
一人の議会関係者が関心を持ってくださいました。素晴らしい報告が来ました。ご心配いただいた皆様への嬉しいお知らせです。
議会関係のM様
一昨日、港湾局から返事がきました。
実際に担当者が現状を見に行って、写真を撮ってきていました。
説明によると、あの軍艦防波堤は国の持ち物で、市が委託管理しているとのこと。あれだけ壊れたのは、昨年の台風の影響でしょうとのことでした。
まず、看板についてはやりかえてくれるそうで、
かんじんの本体は部分的な修理をとりあえずやりますとのことで、全体的な修復は見積もりをとってみないとわからないそうですが、かなりかかりそうなので、来年の予算が固まってきている中、厳しいけ
できるだけ頑張ってみますとのことでした。
思ってもいなかった嬉しい応援でした。
なんと朽ちかけた看板を修理してもらえるようになりそうですね。
このかたは北九州市議会議員です。思いきってメールを出してみた結果でした。
即答をいただき、驚くやら嬉しいやら、対応の良さに仰天しています。
議会・行政への取っ掛かりでがきました。あまりうまく行ったので、私、きょとんとしています。

お陰様で、防波堤に行く釣り人にも少しは知ってもらえるでしょう。
あの朽ちた看板を首をかしげて「読めないや」という表情をした釣り人を何人も見ました。

予算の方は難しいでしょうけれど、前向きに取り組んでいただけるようで嬉しい限りです。
緊急の修理は難しいとしても、乱暴にコンクリートを被せられたり、という方向からは、遠のいたのかな!?

ひょっとして、将来景気が上向いたら、よもや保存に向けた取り組みも期待出来るかも・・・
その時に向けて息長く働きかけていきたいです。

またこちらとは連絡をとるつもりです。期待しています。

でも、部分的修理って、あの朽ちた船体を修理できるのでしょうか?少し気になります。今後しっかりと見守っていきたいです。



以下、前回の作成部分です。
異国のO様より
以前から海軍教育や過去の戦争の歴史に興味を持っておりまして、 「あの時代には何もなかったが、何かがあった。
現在は何でもあるが、何かがない。」その『何か』を探し求めていたところ、海軍の良き伝統を学び継承すると言う集まりの「海軍倶楽部」を知り、現在は海軍倶楽部の末席に所属させて頂いて居ります。
そのHPで抹茶さん(抹茶さんと呼ばせていただいても良いのでしょうか?)のHPが紹介されていましたので今回のMAILとなりました。
私のページが紹介されている「海軍倶楽部」とは、どこなのでしょう。教えてください。<抹茶
 
異国のO様より、続き 
(掲示板に書き込むつもりとのことでしたので、勝手ながら公開させていただきました。ご迷惑でしたらお知らせ下さい。すぐ対応します。抹茶)
 さて、私が感じたままを述べさせて頂きます。軍艦防波堤の事は、聞いてはいましたが現物を見たり詳しい説明を受けたのは初めてです。
「柳」の戦歴に関しては勉強不足で詳しくは知りませんが、「涼月」「冬月」と言えばおっしゃる通りで「大和」の沖縄特攻に同行した防空型駆逐艦だったと思います。五十数年前に米国の鉄と火薬の風雨から国民を守り、幸運にも生き長らえた後に現在に至るまで自然の波から国民を守り続けている、感謝しても感謝しきれない存在ではないでしょうか?
それが(その方がと言った方がいいかもしれません)この姿でいるとは日本国民として情けない、恥ずかしい限りです。今の人々には判ってもらえないのでしょうか?
そう思うと、日本はどこかで大切な道を踏み外したとしか言いようがありません。戦争イコール悪、それは間違いないと思います。しかし、先の大戦で青春をすり減らして家族を、そして国を守るために戦い続けた人を冒涜するのが間違っているように、当時の艦艇や航空機も記念碑としてでも残しておくべきと思います。
しかし、今の日本のどこに国がお金を出して管理している戦争博物館のような物があるのでしょうか?
戦争に関係するものは全て悪、と教え込まれているような気がしてなりません。これは間違いではないでしょうか?事実として先の大戦で戦った方がいるからこそ今の裕福な日本があるのであり、それを悪と決めつけて臭いものにはフタ式でいるから今の世の中何も知らない人が多すぎるのだと思います。先の大戦で亡くなられた方は、この様な日本を望んでいたのでしょうか?このままでは、日本はなくなってしまわないかと心配です。
この軍艦防波堤も最低限度、残していただきたい。
しかし、今の私には何もできませんし方法も判りません。それがとても情けないです、悔しいです。 
抹茶さんにお願いがあります。私は何もできませんがこの気持ちを軍艦防波堤としていまだに頑張っている「柳」「涼月」「冬月」に伝えて頂けないでしょうか。
この様な日本人もいるぞ!って事を伝えてください。また、この船と共に戦い無念にも亡くなられた方にも合掌を遠い中国からですがさせて頂きこのMAILを終わりたいと思います。 長々とつまらない文を申し訳ありません、御許しください。
また何もできず意見のみを言わせて頂いた事に対してもお詫びせねばなりません。申し訳ありませんでした。私のADDRESSは下記の通りです。抹茶さんからも何かお言葉を頂ければ幸いです。宜しくお願い致します。
熱いお気持ち、良く伝わってきました。
下記のM・S様のお手紙に対する返答も参照いただき、少しだけ安心いただきたいのですが、
若松区高搭山に忠霊搭という戦争犠牲者をまつる公園があります。そこに、3隻の慰霊碑があります。遺族会のような会が立てたと書いてあります。
防波堤そのものは野ざらしですが、きちんとした立派な慰霊碑があるということは、少しだけ救いです。写真もそのうちお見せできると思います。

ただ、私としては慰霊だけではなく、軍艦そのものの存在を感じることの出来る現状を大切にしたいです。

もしいつか私が遺族会に接触できれば、是非あなたのお言葉をお伝えします。

ただ、遺族とはいえ、色々と複雑な感情をお持ちでしょうから、気軽にはできないと思います。このページの一番下の「戦前派の方」からの手紙を読んでそう思いました。

色々な方からの御意見を聞き、それなりの準備を進めたいと思います。
M・S様より
非常に驚きました。あの舳先など、ゆるぎないものの     ように思え、滅多なことでは壊れないと思っていたのですが。     自然崩壊ならば嘆息するのみですが、なんとも不自然な様子     です。この様子が非常に気掛かりです。     抹茶様にお願いしたいのですが、若松市忠霊搭(現在北九州市     若松区高搭山山中にあり)脇に柳ら三艦の慰霊碑がありますの     で、是非、その慰霊碑を建立された団体に連絡をしてみて下さ     い。柳会、冬月会などの遺族会がおそらく現在も市内にあると     思います。     また、以前民間テレビ局にて防波堤のことを紹介しているので、     テレビ局に関心を寄せてもらえる所もあるかもしれません。
抹茶>
ご指摘の忠霊搭の横の慰霊碑、実は区役所に場所聞き
写真を撮ってきました。出来るだけ早く載せます。

遺族会の名前も慰霊碑に書いてあったので、近く調査せねばと思っていた所です。
多分、区役所に聞けば教えてくれるかもしれないと思います。
この調査の次の段階として、考えています。必ず近い将来そちらに行かざるをえないでしょう。

ただ、遺族とはいえ、色々と複雑な感情をお持ちでしょうから、気軽にはできないと思います。このページの一番下の「戦前派の方」からの手紙を読んでそう思いました。

今現在は、皆様から頂いた御意見を整理して、
自分のこれからの方向を考える材料を作りたいと思っています。
軍艦防波堤のページに、皆さんの御意見をまとめて書きます。

それと、多分去年の夏の台風による被害ではないかと思い付きました。
北九州市の門司の岸壁も、当時手ひどい被害を受けてますし、多分その時かも。
大波にやられたとすれば、錆び具合からしても納得のいく壊れかたです。
ちょうど流されたかのような壊れかたですから。

釣り人に、いつ頃壊れたか聞いてみるという手も考えています。今日も3人ほど聞きました。<抹茶
 
M・Y様より
いきなり状態が悪化したようですね。元来が軟鋼ですから、腐食対策とかしていないと、いつかは錆で崩壊することになります。ですから、そろそろ天寿が来たと思って、埋めてやるのもまた一手かとも思います。
冬月や涼月のように鉄泥棒に狙われるのも悲しいですからね。本来ならば大蔵省か連合軍の手によって解体されていたはずのものですから、それがここまで役立ったと考えれば、まぁ。。。
しかしもし保存運動を起こすのであれば、マスコミを動かすのが一番だと思います。地元新聞社やTV局を通じて同志を募れば、あるいは。
個人的には前述の通り、どう反応したらいいか迷っています。そのままそっとしておいてやりたい気もしますし。。。確かに最期はちゃんと埋めてやれって気もしますけど。ではでは
天寿・・・全くなのです。
どこにあのぼろぼろの錆の固まりを保存する技術があるのか・・・
やるだけをやるまでですが。。。

しかし、かつて鉄泥棒にやられていたとは知りませんでした。
その話は、どのような所からお聞きになったのでしょうか。
保存運動、考えています。その前に、今の所わかっている所を自分なりに整理しようと苦心しています。
私の行動が遅くならないことを祈っています。
 
O・T様より
貴重な近況報告ありがとうございます。これって、やっぱり自然破壊なのですかね〜。悲しいですね。
市or区の力でなんとかならないものでしょうかねぇ。ここはやっぱり市民が一番初めに動かねば、市も区も動かないのかなぁ。
> 遺跡は過去から我々へのメッセージを伝えるものであり決して無用なものではない。
まさにその通り!ですよねこの言葉・・。
O@K様より
 軍艦防波堤の情報ありがとうございました。 
このようなものがあることを全く知りませんでした。 
若松方面へ行った際には、立ち寄って見たいと思っています。 
M・M様より
おはずかしながら軍艦防波堤のこと、はじめて知りました。それも若松にあるということも。
とにかく自分の目で見てみたいと思いますので、数日時間を下さい。又ご連絡いたします。 
軍艦防波堤についての記事を、随分前にある本に掲載した著者からの手紙を引用
貴重な戦前派の方の御意見です。
(中略by抹茶)
特に、軍艦とか戦争に関することは戦前派ですのであまり語りたくなく、趣味もありません。
只、平和に戻り防波堤として活躍したことの証として皆様に知っていただくために
(後略>そのために、軍艦防波堤の記事をある本に掲載したとのことBY抹茶)


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更新履歴
2000−01−10 崩壊した形を初公開
2000−01−14 第一回更新
2000−01−22 第二回更新
2000−01−23(「柳」についての詳しい解説をM・S様よりいただきました。)
その指摘により、一部記述を訂正。

2000−01−27 旧ページについて「大型写真」をアピール
2000−01−27 M・S様の指摘により、2度更新
2000−02−13 少し記事を書き加える。市議M氏へのインタビューを掲載
2000−04−02 修復に関する記事。崩壊推定日も追加
2000−04−29 訪問者の感想を追加
2001-08-23 放送についての誤解を解くための処置
2001-12-31 トップページを書き換える


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